一度戦火に晒されたローラントの王城は、その痕跡をそこかしこに残していた。
彼女は夜空に輝く満月の下、バルコニーの手摺りに残る焦げ跡を、侘しさと共に指でなぞる。其処には既に熱はない。しかし、あの燃えさかる炎は、今も彼女の瞼の裏に焼き付いている。
リースにとっては、この王城は守るべき場所であり、愛しい家だった。
要塞のように堅牢でやや無骨なきらいはあるが、美しい城であったのに。焼け跡を見るたび、守れなかったものを思い出し、彼女の胸は軋んだ。
父王と、幼い弟。この城で、彼女の傍にあったはずの人たち。
失ったものを数えるたび、身のうちを焼くような怒りが湧いた。それは今も、彼女の身を焦がし続けている。
しかしそうして怒りに燃える彼女の頬を、冷たい故郷の風がなぞる時、ふと、それとは別の存在を思い出す。
奇しくも、敵であるナバール盗賊団に身を置いていた、彼女の仲間。
ホークアイの姿を。
彼女は熱を失った焦げ後から指を離して、ゆっくりと瞼を落とし、慣れた風の匂いを胸いっぱいに吸い込む。やがて、肩越しに振り返った。
「……ホークアイ。眠れないのですか?」
そうして訊ねれば、果たして、後方の暗がりから様子を伺っていた気配が、月明かりの下に姿を現した。深夜であるからか、彼女と同じく軽装で、髪を解いたホークアイは、困ったように微笑んだ。
「気づいてたのか」
「足音、消していなかったでしょう?」
指摘すると、ホークアイは軽く肩を竦めて答えた。彼は盗賊だ。本当に気づかれたくなかったのなら、足音を消すことくらいは容易にできると、リースは知っている。
「……君が、眠れないのかな、と思って」
「心配してくださったのですか?」
「そりゃまあ、するだろ」
暗がりからこそ踏み出したホークアイはしかし、決してそれ以上は距離を詰めなかった。どこか居心地悪そうに身動ぎするのを見て、リースは手摺りを軽く叩いて促す。
「此処は風がたまに強く吹くんです。距離が遠いと、お話には向かないんですよ」
するとホークアイは、当惑したように眉を寄せて視線を彷徨わせた。随分と迷っているように見えたが、リースにはその理由が見つけられない。
彼女が不思議そうに小首を傾げるのを見て、ホークアイはやがて意を決したように、やはり苦笑を浮かべた儘、リースの傍へと歩み寄る。
「……じゃあ、お言葉に甘えて」
しかし、彼はリースが指し示した方とは逆に立ち、手摺りに肘を置くと、身を乗り出す。
「ローラントは景色がいいな。遠くまでよく見える」
リースは城下を見下ろすホークアイの横顔を仰いだ。
彼が立ったのは、風上だった。
無言の気遣いに、じんわりと胸が温かくなる。ホークアイは常に周囲を気にして、心を砕いてくれる人だった。
リースも、同じようによく、此処でエリオットと星を見上げた。
彼女はいつも、エリオットが寒くないようにと厚着をさせた上で、彼を守って風上に立っていたのに。
彼はいつだって、何も言わずに、彼女を気遣ってくれるのだ。
「星も、綺麗なんですよ」
促されたホークアイが空を仰ぐと、そこで初めて、星空の美しさと近さに気がついたらしい。彼は目を見開いて、星空のように瞬かせる。
「……本当だ」
僅かに空いた唇が、やんわりと弧を描くのを、リースは微笑んで見守った。
「忘れていたんです。空を見上げることなんて。でも、此処に立って、ほんの少し前まで、こうしてエリオット……弟と、並んで星を見たことを思い出したんです」
リースは同じように、星空を見上げた。
星空は、変わらず美しい。地上で何が、移り変わったとしても。かつては隣に弟のエリオットがいた。そして今は、隣にホークアイがいる。
リースが彼と過ごした時間は、然程長くはない。しかし短くとも、劇的で、鮮烈であった。
「本当に、色々ありました。独りで此処を出た時には、想像できなかったことが、たくさん。でも、またローラントに帰って来ることが出来た」
まだ道の途中だ。為すべきことは多くある。けれども、旅立った時と違い、彼女は今、独りではない。
星空から視線を戻し、彼女は身体ごと、ホークアイに向き合う。
「シャルロットちゃんと、貴方のおかげです。ホークアイ。ありがとうございます」
「礼なんて、必要ない。俺は……」
予想した通りに、彼は当惑しきって首を振った。リースはその言葉の先を継がせず、きっぱりと首を振る。
「いいえ。貴方はたくさん、私を助けてくれました。貴方は、いつも明るく前向きに、私やシャルロットちゃんを励ましてくれた。それがどれだけ、心強かったか」
当初リースにはホークアイが、随分と軽薄な人物に見えた頃もあった。街で女性に声をかけて、楽しそうに振る舞う姿もそれに拍車をかけた。或いはそのどれも本当の彼かもしれなかったが、昼間、リースが見た彼の姿が、それが全てではないことを教えてくれる。
「そう……、貴方はいつも、明るかった」
そう呟いて、リースは視線を落として手を伸ばし、ホークアイの手を取る。
細く見えるがリースよりも随分と大きい、少し乾いた、男の人の手だった。
「……リース?」
「ホークアイ。私、ナバールが憎かったんです」
その手を取って告げると、怯えるように、その手が震えた。
リースはその手を逃さないよう、強く、引き止める。
見上げた先、少し近づいた彼は、はっきりと傷ついたように映った。そして、告げたリースの顔も、たちまち曇る。
「それを不当だと思うことは、まだ難しい。でも、ホークアイ。貴方にとっては、それはきっとつらいと感じたはず。だから……」
リースは怯えるように強張った儘のその手を、両手で包むと、ゆっくりと俯いた額に押し付けた。
許しを、乞うように。
「ごめんなさい……」
出会ったばかりの頃、聖徒ウィンデルで、彼が隣にいることを知りながら、リースは怒りに任せて言葉を選ばなかった。パロでもそうだ。
リースが剥き出しにする怒りや言葉を、ホークアイはいつも、当然のようにして受け止め、何も言わない。弁明もしない。それに気がつくのに、随分とかかってしまった。
「何故……」
額につけた手は、震えこそないものの、強張ったままだ。呆然として呟くような声も、固い。
「正当なものであったとしても、それを理由に、貴方を踏みつけにしたくありません」
「君には、その権利がある」
「そうかもしれません。でも私は、ナバールのしたことで、貴方が謝るのを見るのも、つらいんです」
リースは顔を上げると、もう一度、しっかりとその手を握りしめた。
ローラント城を歩く彼の、すまない、と絞り出すような声音。決して合わすことのない眼差し。
ナバールへの憎しみが決して消えないリースにも、彼が悪くないことは理解できる。これまでの経緯を聴ながら、多くを失った彼に対し、今までに、怒りと共に吐いた言葉は決して取り戻せない。それに気づかない儘でいるような、残酷なこともしたくなかった。
「もう貴方は私にとって大切な……、旅の仲間です」
その言葉に、握った儘だったホークアイの手の強張りが、僅かに緩んだ。
それが得難いことのように思えて、リースは微笑む。
「だからもう、謝らないで」
ホークアイが悲しいと、リースも悲しい。いつものように、笑っていてほしいと思ってしまう。それが強がりではなく、虚勢でもなく、本当であったならいいと願わずにはいられない。
今は、それが無理でも。
「それに……私は今日、ようやく気付いたのです。貴方は……、故郷の方々と、戦うことになるのだと」
ビルとベンと呼ばれた兵士。それと相対するホークアイの眼差しと、手の震え。
リースにとって、それは衝撃であった。
怒りに目が眩んで見えなかったものが、ようやく鮮明になった気がしていた。それがどれだけ、酷なことであったのか、その時になって理解した。
「私が貴方なら、耐えられるかどうか……」
彼女にも、大事な人たちがいる。アマゾネスの皆がそうだ。
それがもし、敵になったらどうだろうかと自問し、彼女は恐ろしくなった。ホークアイのように、毅然と戦えるだろうか。
リースはその答えを、迷ったまま、出せないでいる。
きっと彼の進む道は過酷だろう。美獣の洗脳が解けない限り、どうあがいても、故郷との対立は避けられない。その中で、彼は何人、見知った人と戦うのだろうか。
そして、辛さを隠したまま笑い、周囲を気遣うのだ。
ちょうど、今のように。
「ホークアイ」
見上げて、彼の星色の瞳を覗き込み、その名を呼ぶ。
彼は途方に暮れているように見えた。その寄る辺ない気持ちに寄り添うように、リースは告げる。
「次は、私が、貴方の助けになります」
嘗ての同朋と同じとまではいかなくとも、たった独りではないのだと思ってほしくて、安心できるよう、彼女は微笑む。
「必ず、貴方が元のナバールに戻れるように。ジェシカさんを、無事に取り戻せるように。私の槍に懸けて、必ず、力になると誓います」
その言葉に、星色の瞳が揺れた。それが何かを耐えるように細められたのを見たと思った、その刹那。
彼女は力いっぱい引き寄せられ、いつの間にか、彼の胸の中にいた。
嗅ぎ慣れた異国の香りに気づいた時、思わず身動ぎしようとしたが、強い力で抱き寄せられ、少しも動くことが出来なかった。
普段の彼女ならば、あっという間に狼狽していただろうが、その時、彼女は弟を思い出していた。怖い夢を見たと言って、枕を引き摺ってリースの部屋までやってきては、力いっぱい、しがみついてきた弟を。
リースの髪に顔を埋めているホークアイの表情は見えなかったが、リースはほんの少しだけ躊躇してから、その背を慰めるように擦った。弟に、そうしていたように。
「……ホークアイ?」
そうして小さく呼びかける。
すると、あからさまにホークアイの身体が跳ねたかと思えば、
「きゃっ!?」
リースが思わず悲鳴を上げるほどの勢いで、彼女の身体を引き剥がした。
見据えた先、むしろ、驚いているのはホークアイの方だった。そんな風に、慌てた様子のホークアイを見るのは初めてだった。リースは思わず言葉を忘れて、ホークアイを見つめてしまう。
その視線を受け、ホークアイは漸く自らがした行動に気付いたかのように、早口で捲し立てる。
「わ、悪い! いや、その、ごめん」
呆然とするリースの見上げる先、月下でそれとわかるほどに、真っ赤に染まった褐色の肌を見て、動揺は遅れてやってきた。彼女は顔を真っ赤にして俯く。
ホークアイの飄々とした姿が見る影もない。それが何故だか嬉しいようにも、面映ゆいようにも感じる。
リースは目線だけで見上げると、ホークアイは一瞬目があった後、誤魔化すかのようにして視線を逸らした。
「風が……冷たくなってきたから、そろそろ戻ったほうがいい」
「そっ、そう、ですね。そうします……」
反射的にそう答えたが、実のところ、風の冷たさなど、少しも感じることができなかった。動転して上がった体温で暑いくらいであったし、耳のすぐ奥で脈打つ鼓動の音が大きすぎて、風の音さえ聞こえてこない。
リースの腕を捉えた儘だったホークアイの手が外れると、リースは思わず胸に両腕を抱き込んだ。鼓動が早鐘を打っている。外に聞こえないのが、不思議なぐらいだった。
「じゃ、じゃあ、私はこれで……っ!」
うわずった声と共に頷くと、リースは踵を返した。
(わ、私ったら、なんてことを!)
心のなかで叫んで、リースは足早に城内を目指す。
どこをどうとっても幼い弟と似つかない年上の異性に、とんでもないことをしてしまったと、ぐるぐる回る思考を懸命に振り払いながら歩く彼女の背に、
「リース」
彼が、引き止める声をかける。
リースは肩越しに恐る恐る肩越しに振り返れば、其処には、望んだ通りの柔らかな笑顔があった。
「ありがとう。おやすみ」
そう声をかけたホークアイは、いつもよりも嬉しそうで、いつもよりも穏やかだった。
彼女はそれを前にして、羞恥を忘れて目を瞠り、やがて同じように嬉しそうな笑みを浮かべた。
***
山城に吹く風は冷たい。しかし、火照ったと自覚するほど熱い頬の熱は、いっかな冷めなかった。
「ああー……」
手摺りに顔を伏せたホークアイは、誰も見ていないからと、小さく呻いてから、長い長い溜め息を吐いた。
「クソっ、失敗した」
ついでに悪態を吐いて、顔を顰める。
リースが愛らしい人であることを、ホークアイはとうに知っていた。それこそ、出会った瞬間から。それだけではなく、頑固だが誠実で、強く、優しい。日々を共に過ごす中で、ナバールが為した事の罪悪感からではなく、その直向きさを支えたいと思うようになるまで、そう時間はかからなかった。
そして、いつの間にか目で追ってしまう自身の情動が、いかなるものなのかも、正しく理解していた。
しかし、ホークアイとリースとでは、何もかもが違う。立場も、身分も。
分不相応に望むべきものでもなく、謂わば、文字通りに高嶺の花だった。
そうでなくても、いずれにせよ、リースにとっては仇であるナバールの所属であることは変わらない。あの砂漠を出たところで、ホークアイの心はいつでも、ナバールと共にある。彼はそれを恥じるつもりなどなかったし、変えるつもりもなかった。
ナバールの責任は、ホークアイの責任でもある。リースが失ったものを思えば、どうして、彼女を望めるだろう。
それらを表に出すような、愚かな真似はしない自信があった。もとより韜晦は上手い方だという自負も。ところが、それらはあっという間に突き崩されて、あの有り様だ。
思い出すのは、顔を埋めた髪の匂い。抱き寄せた身体の思わぬ柔らかさ、月の光に照らされた嬉しそうな美しい微笑み。
愚かにも、あっさりと衝動に身を任せたことを恥じて、ホークアイは再び嘆息を落とす。
「あんなの、反則だ」
ホークアイが胸に沈めて押し隠したものを、リースが知るはずもない。半ば八つ当たりのように呻いて、ホークアイは空を見上げた。
長らく、空を見る余裕などなかった。
リースがそう呟いたのと同じに、ホークアイもまた同じだった。其処に星があることさえ、忘れていたような気がする。
広大な砂漠では、夜に瞬く星は標となる。故に、ナバールの者は誰でも、星を読むのが得意だった。ホークアイもまた、あの何も無い砂漠でよく星を見上げていた。
砂漠から見上げた星は遠くに感じていたのに、ローラントで見上げる星は、何故だか、とても近くに感じる。
それこそ、手が届きそうなほどに。
彼は馬鹿馬鹿しいと思いながらも、試しに手を伸ばしてみる。当然だが、空に手が届くことはなかった。ホークアイは空を切った手を握りしめ、一際明るい星を探して視線を巡らせる。
ローラントから見上げた見知った星は、強い輝きを称えた儘、依然、其処に在る。
砂漠の導きの星。砂漠の旅人の誰もが探す、明星。
彼はそれを、リースのようだ、と思う。暗い空にあって輝きを失わず、標にならんと強さを宿す星。
「ああ……、まいった。これはとんでもないのに惚れたぞ……」
それは彼にとって、気付かずに、目を逸らしていたい恋だったのに。もう自身を騙すことさえ出来ない。
どこにも行き場がない想いを抱えて、ホークアイは目を閉じた。地上から見上げる星の如く、隔たった距離を思う。
砂漠で標を探す旅人のように、きっと、彼はこの先どこに居ても、その明星を探してしまうだろう。
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