「あんたよくあんなのと一緒に居られるわね!」
 カノンは、自分に向けて投げ掛けられたであろう、その言葉に驚いて振り向き、そして当惑した。
 彼女は酷く怒っているようだった。その語気の強さからも、怒らせた細い肩や形相からもそれは明らかだった。しかし、カノンにはその理由を把握出来ずに、思わず首を傾げる。そうして、彼は知り合ったばかりの彼女の名前を記憶から引っ張り出す。
「ええと、リシェルさん、ですよね? 何かあったんですか?」
「何かじゃないわよ! あんなこと言われて、カノンは平気なの!?」
「あんなこと?」
 彼女が目を吊り上げて怒っている理由は、発言から察するに、カノンと一緒に居る誰かの発言に対してものらしい。しかし、その誰か、というのは考えるまでもなかった。記憶を遡ってみれば、彼女のような人間が聞いて怒るような発言については、候補がありすぎて絞ることさえ難しい。その人物の言動が、多くの者にとって不愉快であることは、言うまでもなかったからだ。
「ひょっとして、バノッサさんが、ボクに言ったことで怒ってます? でも、悪気は無いと思いますよ」
「はあ!? あれのどこに悪気がないって言うのよ!」
「ええと、すみません。ボク、バノッサさんがなんて言ったか、ちょっと覚えてなくて」
「お、覚えてもいないの? あんた、脳天気ね……」
 カノンが笑うと、彼女は毒気を抜かれたかのように呆れて見せ、少し気まずそうに目をそらした。
「アイツ、ポムニットに対して、ほら……」
「……ああ!」
 そこで漸く、カノンは先程のバノッサの発言に思い至った。
 確かに、バノッサはポムニットという女性に対して、随分と失礼な発言をしていた。暴走した彼女を見、喜々として化物だと言い放ったのだ。
「本当にすみません。そういえば、謝罪がまだでしたね」
「べ、別にカノンに謝ってほしいわけじゃないわ。それに、アイツ、ポムニットだけじゃなくて、あんたにもおんなじこと言ってたじゃない。それで怒らない上に、覚えてもなかったわけ?」
 確かに、その時、ポムニットの人並み外れた振る舞いを、カノンと同等だと言うような趣旨の言葉も添えていた。彼女はそれに対して、カノンを気遣っているらしい。
 この世界の人は、カノンに優しい。それが面映ゆくて、カノンは頬を掻いた。
「ポムニットさんに対しては無条件で失礼でしたけど、バノッサさんに悪気はないんです。本当に。なんというか、どちらかと言えば、あれは褒め言葉に入る、のかな」
「あれのどこが褒め言葉だっていうのよ!? おかしいんじゃないの?」
「あはは、うまくは言えないんですけれど、ボクにもポムニットさんみたいな力があって、でも、それはバノッサさんにとっては悪いことじゃないんです」
「そう、なの?」
 振る舞いや身なりを見ていてもわかることだったが、育ちが良さそうなリシェルに、カノンやバノッサの境遇は理解し難いものだろう。きっとそれは、幸福なことに違いない。
 生きている時間さえ異なった、本来ならば会う筈もなかった少女にむけて、カノンは微笑む。
「はい。この力がある限り、バノッサさんの役に立ちますから」
「役に立つって……」
「バノッサさんは、この力が必要だと思ってくれる。バノッサさんが必要だと思ってくれる限り、ボクはこの力も、生まれたことも、恨まなくて済みますから」
「そんな……。そんなのってまるで、その力だけが要るみたいじゃない。カノンは……それでいいっていうの?」
 リシェルはやはり、納得がいかないといった面持ちで訊ねた。おそらく、彼女ではなく、カノンと似た境遇のポムニットであれば、もしかすれば、同意をしたかもしれないと、埒もない考えが浮かんだ。
 カノンは僅かに逡巡する。彼女にわかるように話すのならば、少しの勇気が要る。無意識に呼吸を整え、視線を逃した。
「もちろんです。バノッサさんに出会うまで、ボクは本当に、誰にとっても必要じゃなかったから」
 その言葉に、対面から、あからさまに息を呑む音が聞こえた。
 カノンはこんな話を、バノッサにさえ、したことがなかった。まして、出会ったばかりの、他人に放たれた言葉に素直に怒る事ができる少女に対して語るに相応しい話題だとも思えない。
 穢れない瞳を見て話すにはあまりに心苦しく、カノンは彼女の目を見る勇気を、終ぞ持つことができなかった。故にカノンは、それを聞いた彼女が目を瞠って、酷く傷ついた表情を浮かべたことも、知らない。
「多分この力を持っていたのは父親だったと思います。詳しいことはボクにもわからないけれど、ボクは父の顔を知らなかったし、ボクが覚えている限り、お母さんはいつも泣いていました」
 母親と暮らしていた頃のことは、本当に朧気だ。住んでいた場所も殆ど覚えていない。或いは、思い出したくないのかもしれなかった。
 小さな家に、隠れて息を潜めるように暮らしていた。カノンは殆ど閉じ込められている状態に等しく、あの頃、外に出た覚えなどなかった。
 息を詰めるような暮らしの中、母の笑った顔を、どうしても思い出すことが出来ない。或いは、本当に見たことさえないのかもしれない。背を丸めて泣いている姿が、微かに浮かんで消える。
 儚い人だった。異質なカノンを抱え、弱く、寄る辺がなかった。カノンは彼女を憐れに思う。
 記憶にある中では、カノンを責める言葉と涙、振り上げられる白い腕だけが鮮明だ。
「独りになって、バノッサさんと出会ったときのことは、今でも時々思い出します」
 それは、母と暮らしていた時とは対照的で、言葉にすれば、昨日のことのように思い出せる風景だった。
 狭い路地から見えた、雲ひとつない青い空。その下に広がった、赤黒い染み。それが途切れた向こう側に、たった一人、佇んだ白い影。
 帰る場所を失い、誰も彼も彼を疎み、そのまま野垂れ死ぬ筈だったカノンを、果たして、彼が見つけたのだ。
「バノッサさんは、こんなボクを傍に置いてくれました。傍にいてもいいって、初めて言ってくれた人なんです。それまでボクは、生まれたことも、この力があることも、何が悪かったのかもわからなくて、ただ、自分がいることがいけないって思っていたから」
 望んで得たわけではないが、この力は決して、カノンの身から離れることはありえない。ならば、その力ごと許してくれる人でなければ、傍には居られない。そういう存在は稀有なのだ。少なくとも、疎まれ続けてきたカノンには、バノッサが初めての人だ。
「バノッサさんがボクのことを本当はどう思っているか、実は確かめたことがないんです。……勇気がなくて。でも、ボクが傍にいて良いって、思ってくれてるのは本当だと思います。誤解されやすいけど、バノッサさんは優しい人なんですよ」
「それってカノンが他に人を知らないからじゃない。もし、もっと違う人に出会っていたら……」
「それはそうかもしれません。でも、もしだとか、そんな曖昧な仮定が、ボクを救ってくれたわけじゃありませんから」
 遮ったカノンの語調はいっそ淡泊だった。対面のリシェルが息を呑んだ気配がして、それで漸く、語気の冷淡さを申し訳なく思う。
 リシェルの言うことは正しい。カノンは他の誰かを知らない。知る由もなかった。鳥の雛がそうであるように、殆ど刷り込みに近いそれを、しかし、カノンは迷うこと無く唯一無二だったと信じている。
 例えば、今、他の誰かを選べるとしても、カノンは間違いなくバノッサを選ぶだろう。バノッサの傍を離れられないのは、カノンのほうだ。もとより、選ぶべくもない。
 世界が終わるその瞬間まで、バノッサの傍らにいることが、カノンのすべてだ。
「許して下さい。それでもボクは、幸せなんです」
 そうして彼は漸く顔を上げ、少女をまっすぐ見据えた。
 その面に浮かんだ儚い笑みに、彼女は言葉を失う。
 リシェルはそうして僅かに迷う仕草を見せたものの、ややあって、浅くため息を付いた。
「……カノンは、バノッサのことが好きなのね?」
 彼女の問いに対する答えは、はじめから決まっている。
「はい。ボクはバノッサさんが大好きなんです」
 それを聞いた彼女は、呆れたとでも言いたげな笑みらしきものを口元に浮かべる。
 手に負えない。そう感じたのかもしれない。全くもって、その通りだとカノン自身も思った。


***


 小綺麗なカフェの席の奥に、その姿を見つけ、リシェルは足を踏み出した。その足運びは世辞にも穏やかではなく、カウンターの奥に居た店主のフォルスが目を剥いたが、そんなことは気にして居られない。
 彼女に背を向けるようにして席に陣取っている目当ての背に近づくと、思い切り手を振り上げ、そしてそのまま、円卓に叩きつけた。
 凄まじい音が店内に響き、誰もが何事かと振り返った。当然、その円卓についていた人物、バノッサもその例に漏れず、如何にも不機嫌そうな眼差しと共に振り向いた。
「ちょっと、いい!?」
 彼女も負けじと険しい顔で問うが、彼は行儀悪く頬杖を突いて、片眉を釣り上げる。そして、バノッサから思いもよらない言葉が飛び出した。
「誰だ、てめェ」
「だ……っ!?」
 これにはリシェルも驚愕を露わにし、無意味に口を開閉してから、半ば噛み付くような勢いで詰め寄る。
「リシェルよ! せめて顔くらい覚えてなさいよ!!」
 確かに、ここ最近、この不可思議な世界に住人は増えつつある。いつの間にか増えている顔もあるせいで、名前が把握仕切れないのは無理もなかったが、バノッサとリシェルが顔を合わせたのは、一度や二度ではない。
 少なくとも、バノッサといつも一緒にいるカノンは、リシェルの顔と名前は記憶していたようだった。いつも彼の隣に居たはずのバノッサにだって、全く見覚えがないとは言わせない。
 しかし、当のバノッサといえば、リシェルに対して興味のなさそうな態度を隠そうともしない。
「うるせェな。それで、俺様になんの用だ?」
「あんたがポムニットに言った事を訂正してもらいにきたのよ!」
「あ? ポム? 誰だそりゃ」
「自分が暴言吐いた相手くらい、覚えておきなさいよ! ポムニットよ! あんたんとこのカノンとおんなじ、響界種の! うちのメイドへの暴言、取り消しなさい!」
「キーキーうるせェガキだな」
「なんですってぇ!?」
 バノッサは露骨に顔を顰め、手元にある酒のグラスを飲み干すと、叩きつけるような勢いでテーブルに戻す。派手な音が響いて、リシェルは反射的に身を竦ませた。
「うるせえって言ってんだ。痛い目に遭いてぇのか」
 人がまばらな店内は一気に険悪な雰囲気に包まれる。
 リシェルはバノッサの剣幕にたじろいで後退るが、かろうじて踏みとどまった。自らを奮い立たせるように拳を握って、もう一度口を開こうとしたが、
「この店で諍いはご法度だよ」
 カウンターの向こうから、静かに、フォルスが釘を指した。
 バノッサがそちらを一瞥すると、 フォルスは相変わらず人好きのする笑顔の儘、カウンターの奥に鎮座する多くのボトルの一つを取る。
「バノッサさんが暴れたら、このお店にはお酒が入ってこなくなってしまうかも知れませんよ?」
 彼は新しいグラスに酒を注いで、カウンターから出てくる。そうして、リシェルとバノッサの間に文字通り、割って入った。
 空のグラスと新しいものを交換すると、
「あと、グラスは大切に扱ってください」
 柔らかくもたらされた苦言に、バノッサはフォルスを睥睨する。だが、フォルスは人好きのする笑みを崩さなかった。
 やがて、気勢を削がられたのか、バノッサは面倒臭そうに一つ舌打ちをして、大人しく椅子に凭れた。しかし苛立ちは残っていたのだろう。行儀悪くテーブルに足を乗せ、腕を組んだ。フォルスはそれを見て苦笑したが、大人しく引き下がったバノッサを見、それを許容することにしたらしい。去り際にリシェルの肩を軽く叩くと、彼はカウンターへと戻っていく。
 リシェルはフォルスの背を目で追ってから、改めて、バノッサへと視線を戻した。
 リシェルから見てバノッサは、粗暴を絵に書いたような男だ。
 カノン曰く、彼を優しいらしい。しかし彼女には、その片鱗さえ見出すことが出来ない。あれほどの切実な思慕を寄せるに値する人物にも、到底見えなかった。
「なんでカノンは、あんたみたいなのが好きなのか、ぜんっぜんわっかんないわ」
 リシェルはバノッサを見て閉口し、睥睨した儘、呻くように漏らした。
「カノンが何だと?」
「カノンが、あんたのことを大好きだって言ってたのよ。それなのに、何なのよ。信じらんない」
「……へえ?」
 そこで初めて、バノッサは口の端に笑みらしきものを乗せる。彼はテーブルから足を下ろすと、フォルスが新しく注いだ酒を一口煽った。
 ややあって、リシェルを見上げる。 
「おいガキ」
「リ、シェ、ル、よ!」
「特別に見逃してやる。とっとと失せろ」
「ハァ!? 何が見逃してやるよ! 謝って貰うまで、あたしは……」
 リシェルが一歩進み出た刹那、カフェの入口が派手な音を立てて開かれた。
「お嬢様っ!」
「げっ、ポムニット」
 同時に、扉の向こうに涙目のメイドが現れ、リシェルは肩越しに振り返ってそれを認めると、顔を顰める。
「何をなさっておいでなのですか!?」
 殆ど悲鳴に近い声を上げ、彼女はカフェのテーブルをすり抜け、縋るようにリシェルの腕を取る。やがて、リシェルが誰と話していたのか知ると、さっと顔を青ざめさせた。それでも、バノッサから庇うように、リシェルとの間に立った。
 バノッサは眼の前に立って、震えて怯えるメイドに、鬱陶しそうに手を振った。
「てめェか、ポムニットってのは。このガキ早く連れてけ。邪魔だ」
「は、はいっ! さ、お嬢様、行きますよ!」
「ちょ、ちょっとまってよ! まだ話は終わってないんだから!」
「いけません! お願いですから、言うことを聞いてくださいまし!」
 ポムニットに縋られ、半ば強制的にリシェルはカフェの外へと引きずり出される。リシェルを捕まえて離さないポムニットは、店を出るなり、リシェルの両肩を掴んで泣きながら訴え始める。
「お嬢様! 周囲の方からも、あの方は物騒だからと注意を受けていたでしょう!? 何かあったらどうするおつもりなのですか!」
「なんもないわよ! あったとしても、あたしがぶっ飛ばしてやるわ!」
「お嬢様ぁ……」
  バノッサの剣幕に怯んだことを棚に上げ、握り拳を作ったリシェルに、ポムニットは深々と溜息を吐いた。
「そもそも、何をそんなに怒っておいでなのですか?」
 小首を傾げて問われ、リシェルは言葉に詰まり、俯く。
「……ポムニットには、言いたくない」
「そんなぁ……」
 そうして肩を落としたポムニットを上目で伺う。
 リシェルが耳にしたそれは、バノッサと戦うに値する暴言であったと思う。
 けれども、それは当人に知られなくても良いことであるはずだ。きっとポムニットは傷つくであろう。そして、リシェルの手前、平気なふりをするはずだ。
 そう考えて、リシェルは踵を返した。
 ポムニットと共にバノッサのところに行く気にはならなかった。しかし、この調子では、ポムニットを撒くのは難しい。
 戦略的撤退だ。次の機会を狙えば良い。
 彼女は執念深い質だったので、全く懲りても諦めてもいなかった。それを知らず、ポムニットはカフェから離れるリシェルに着いてくる。
 彼女は振り返らず、後方について来るポムニットに聞こえるよう、その名を呼ぶ。
「ポムニット」
「はい?」
「あたしは、ポムニットが役に立つからとか、そんな理由でそばに居てほしいわけじゃないわよ」
「……お嬢様?」
 カノンは言った。自分はバノッサの役に立つから傍に居られる、と。
 同じ境遇にあるポムニットが、一つの居場所としてリシェルの傍に居られる理由を、同じものだと考えていたとしたら、リシェルは寂しく思うだろう。
 想いを言葉にするのは、素直ではない彼女にとっては気恥ずかしく、勇気が要る。しかし、彼女はカノンの寂しそうな横顔を思い出し、その勇気を振り絞った。
「ポムニットは……、あたしの、お世話係なんだから。ずーっと、あたしたちのそばにいればいいのよ!」
「お嬢様……」
「ずっと! ずーっとよ!?」
「ええ、もちろんですとも!」
 弾むような喜色に溢れた声と共に、リシェルは後ろから抱きすくめられる。背に感じた柔らかな体温と、首元に回った腕に触れながら、彼女は寂しそうに笑ったカノンに思いを馳せる。
 カノンの言葉を、リシェルは、卑屈だと思った。歪だ、とも。そうして、その力の有無によってバノッサの傍にいられるというのは、本当にそうだろうか、とも思う。
 カノンの言うような価値をバノッサこそ見いだせなかったが、リシェルがカノンの言葉を伝えた後、バノッサの態度は明らかに軟化したように見えた。それは、バノッサも少なからずカノンを大事に思っているからではないだろうか、と。
(謝らせてボコボコにしたら訊いてみよっかな。カノンが大事かって)
 不穏な計画を立てながら、リシェルは肩越しに振り返ると、リシェルが大事に思う家族であるポムニットは、本当に嬉しそうに笑っていたのだった。





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