「此処にいたら蜂の巣だ!」
 散り散りに逃げた彼らは、飛び交う銃弾の中から命辛々、這々の体で家屋に飛び込んだ。占領された祖国のために戦うべく、其処に留まっていた者達だった。
「他の奴らは!? 例の軍人とかいう」
「知らねえよ! 兎に角逃げるぞ!」
 レジスタンスは統率を欠いていた。事前に聞かされていた友軍の話と、計画がまるで違う。敵は狙い澄ましたかのように、彼らを囲い込んだ。作戦は失敗したのだと、誰に聞かずともわかる有様だった。
「とにかく此処から離れ……」
「おい……、オイオイ! あれ見ろ!」
「は!? なんだよ!」
 同胞に激しく肩を叩かれ、彼は顔を顰める。指し示された先には、テーブルの上に、人が寝かされているのが見えた。
 慌てて銃を向けて身構え、しかし、一向に動かない様子を見て、銃口を下げる。
 逼迫する状況を忘れて、彼らは顔を見合わせた。
 恐る恐る横たわる人影に近づくと、彼は一目で軍属とわかる見目をしていた。しかし、地元のレジスタンスではない。少なくとも、彼らは知らない顔であった。
「……死んでる、のか?」
 試しに、悼むように重ねられた手に触れてみる。まだ熱を感じた。
「ど、どうする?」
「どうするったって……」
 彼らは普段軍属ではなく、人の死というものに不慣れであった。死にかけている人間を前に、動くことができない。
 後ろからの銃声は近くなっている。二人揃って咄嗟に振り返り、しかし、迷ったのは僅かな時間であった。
「……近くに、赤十字の拠点があったはずだ。運ぼう」
「いや、だが……」
「こんなところに置いておけるか! いいから、手伝ってくれ!」
 彼らは見知らぬ軍人の身体に乗っていた銃をしまうと、砂袋のように重たい身体を、両側から抱えて運び出していった。



 遠くにはサイレンが聞こえた。騒ぎを聞きつけた地元警察のものに違いなかった。
 為す術はなかったように思う。
 左足の感覚が鈍い。おそらく、落下した際に折れでもしたのだろう。ニコライに連絡を取ろうにも、揉み合った際に、通信する術を無くしたらしい。ニコライは状況を把握できず、今頃大いに慌てているに違いない。報せてやれないことだけは心残りだったが、やがて彼も知るだろう。
 マカロフの死を。
 葉巻の紫煙を追いながら、目の前で揺れている死骸を眺め、余りにも膨大な犠牲を思う。本当に、長い戦いだった。
 しかし、これは区切りであった。一つの戦いが終わるための、区切りであった。
 どの時代も、このくだらない世界では、次を担う者が現れる。もしかしたら、そのとき、プライス自身は其処に居ないかもしれない。けれども、それと戦う者が途切れることもない。
 彼は今、望みを果たした。まるで舞台から降りる役者の気分であった。
「餞にしては、十分だろう?」
 その問いかけに答えるものがない儘、俄に階下が騒がしくなり始める。
 大勢が駆けてくる音だ。
 何が来るかはわかっていたので、プライスは慌てた様子もなく、ただ葉巻を楽しむことを決めた。おそらく、この先、それを味わう機会は遠いだろうとわかっていたからだ。
 やがて、迎え入れるまでもなく、地元の警察が彼の元に雪崩れ込んだ。
 現地の言葉でがなり立てながらやってきた彼らは、目の前の惨状に一瞬静まり返り、宙にぶら下がっている死骸とプライスとを見比べた後、やがて唯一生きている彼の方へと歩を進めた。
 そうして、プライスはその護送に逆らうことなく、その場を後にした。
 翌日の世界のトップニュースは決まっている。
 超国家主義者の首魁が死んだ、である。しかし誰がそれを為したか、どのように書かれるかは定かではない。たった二人だったが、特殊部隊によるものと書かれるかもしれなかった。
 超国家主義者の首魁が関わる事件ということもあって、現地の警察の手に余るものであったことは言うまでも無い。実際、大慌てであったのであろう。
 とはいえ、拘束したプライスは満身創痍の有様であったし、まさかそのまま放っておく訳にもいかず、警察所縁の病院に押し込まれるようにして拘束されることとなった。
 マカロフには多くの手下がいたのだから、報復を警戒しなければならなかった。汚職や腐敗にどっぷりと浸かっていそうな現地警察がどの程度機能するかは疑問であったが、火の粉が降りかかるとなれば話は別であるらしく、警備はそれなりに厳重なようだった。
 しかし厄介事に他ならない元国際指名手配犯など、早く余所にやってしまいたいというのが本音なのだろう。一通りの治療を終えるとすぐ、英語に精通する警察の者から、引き渡しの話が降ってきた。
 しかし、その者が踏ん反り返って口にした言葉は、想像していたものと異なっていた。
「英国から、お前の身柄を引き渡すようにとの申請があった」
「英国、だけか?」
「……? お前は英国人ではないのか」
 話を持ってきた警察の官僚らしき男に、プライスの質問の意図が伝わらなかったらしい。指名手配が解かれたとはいえ、プライスの命が欲しい国は、他にあるはずだったからだ。FSBやらCIAでも、押しかけて来てもおかしくないところだ。
「引き渡しは、いつになる?」
「先方はもうこちらに向かっているとのことだ。忙しいことだな。明朝、引き渡しを行う」
「構わない」
 鷹揚に頷いたプライスの態度が癪に障ったのか、男は思いきり顔を顰め、
「逃げだそうだなとは、思わぬことだ」
 と、捨て台詞を残して出て行った。
 病室に取り残されたプライスは、自身の左足に嵌められた大げさなギプスに視線を移すと、
「今更逃げようなどとは思わんさ」
 と、独りごちた。



 明朝、というにはまだ早い時間に、プライスは警察官に囲まれ、病院を出ることになった。
 朝日すらまだ空にはない。漸く東の空が明るくなってくる頃だというのに、周囲は物々しい雰囲気に包まれていた。如何にプライスの立場が重要視されているかという現れであったが、当のプライスはそんな風をおくびにも出さずにいる。
 足を痛めていたため、プライスは車椅子に乗せられる羽目になった。
 歩けると主張したのだが、歩くとなれば杖が必要になり、手錠をかけられないからとの理由で却下され、不愉快極まりない形での護送となった。
 自由を許されない儘、車椅子を押されて病院を出る。
 高い塀に囲まれた病院の、頑丈そうな門扉の前には一台の車が停まっており、佇まいから、大使館からやってきたのであろう車であると知れた。
 通常であれば、空港まで護送されるものと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
 プライスの姿を認めてか、黒塗りの車の運転席から、一人の男が徐に降りてくる。
「……!」
 そこで漸く、プライスは目を瞠った。その男に、見覚えがあったからだ。見間違えるはずがない。
(ニコライ)
 その名を音に出さず呟くと、まるでそれが聞こえたかのように、ニコライは片目を瞑って、プライスにだけそうと解るような、茶目っ気たっぷりの挨拶を寄越した。
 プライスを囲んで護送してくる警官との距離が縮まると、ロシア訛りの、懐かしい声が彼らに問う。
「彼が?」
「ええ、ジョン・プライスです」
 プライスから見れば、白々しいまでの態度であったが、工作員らしくニコライは堂々と続ける。
「ふむ」
 プライスの顔と手元の端末の資料を見比べるようにしてから、
「ご苦労。こちらで引き取ろう」
 と、鷹揚に頷いた。
 引き渡しの書類にサインをした後、最も近くにいた警官に、ニコライは指示を出す。
「ああ、手錠の鍵はこちらで預かろう」
 そうして、言われるまま、警官はニコライに鍵を引き渡した。そして、ニコライはプライスの身体を支えるようにして立たせる。
 人前で手錠を解くという真似ができないためか、少々歩きづらかったが、まさか文句を言うわけにも行かずに、プライスは顔を顰めた。
「無事でなによりだ」
 その時、小さく呟いたニコライの言葉が耳朶を打って、プライスは小さく微笑む。
 それを見計らったようにして、黒塗りの扉の後部座席が、ひとりでに開いた。否、中に座っていた人物が、開けたのだと知れた。
 そして、今度こそ、プライスは驚愕した。
「ようこそ。座りたまえ。ジョン・プライス大尉」
 ドアに手をかけ、酷く人懐こい笑みを浮かべた男の言葉は、酷いスコットランド訛りだ。
「マック……」
 声にしては行けないのも忘れて、プライスは小さく呟く。すると、自分を支えているニコライが肩を震わせて笑っているのがわかった。思わず睨み付けようと首を巡らすより早く、彼はやや乱暴に、プライスを後部座席のほうに押しやる。
 押し出されたプライスを受け取って、後部座席にいた彼は、器用にプライスを手伝いながら、すっかり座席に引き込んでしまう。
 プライスの罵倒が響く前に、後部座席の扉がやや乱暴に、音を立てて閉まった。
「協力に感謝する」
 防音性の高い扉の向こうで、ニコライがかすかにそう警察官達に告げたのが聞こえた。ややあって、運転席にニコライが乗り込んでくる。
 射殺さんばかりに睨んでくるプライスの視線をバックミラー越しに見たニコライが、笑い声を上げたのは、車を走らせて病院を出た後すぐのことだった。
「だっははは! いいものをみた! プライスのそんな顔が見られるとは思わなかった!」
 遠慮無く笑われ、プライスは肺を空にするまで溜息をついた。ニコライに次いで、隣に何食わぬ顔で座っている、元上官を睨むことも忘れない。
「何故、此処に?」
 プライスに短く問われた彼、マクミランは、いつの間にやら葉巻を咥えながら、
「不出来な部下を迎えにな」
 と、何食わぬ顔で答えた。
「連隊はそんなに暇なのか? それともクビになったか」
「お前達のおかげで大忙しだ。休暇を使う暇がなくてな。休暇を消化しろとせっつかれたところだ」
 プライスの皮肉にも動じた様子はない。
 彼は運転席のニコライが放った鍵を受け取ると、手慣れた様子で、プライスの手錠を外した。
 漸く両手が自由になり、プライスは思わず両手首を摩った。本音を言えば、昨夜あちこちぶつけたばかりだったので、身体中悲鳴を上げている。どこが痛いなどと、もはや判然としなかった。
 痛みに顔を顰めているプライスを見、マクミランが嘆息と共に口を開いた。
「マカロフの件は、よくやった。だが、ニコライから連絡を受けて、肝が冷えたぞ?」
「矢張り、お前が手を回したのか」
「ああ。ニコライに感謝するのだな」
 プライスが拘束されたことを、誰より早く知ることが出来たのは、ニコライだけだ。プライスの身柄引き取りの申し出が余りにも早かったこと、それも英国からであると知って、なんらかの意思が働いているのは理解できたが、まさか、はるばる英国からマクミランがやってくるとは思っていなかった。
 まるで悪戯が成功した子供のような顔で、マクミランは笑みを深める。バックミラー越しに、ニコライがにやけているのも、気に入らない。だが、助かったことも事実であった。
「この借りは、返す」
 短く呟いた言葉は、これ以上なく刺々しかったが、それで通じたらしい。ニコライは笑みを深め、マクミランは一つ頷いた。
「これに関しては、マカロフを仕留めた報酬と思ってくれていい」
 そう前置きして、彼は続ける。
「ジョン。お前の扱いについてだが、前も話した通り、国際指名手配は解かれ公式に許可を得てタスクフォースの人間ということになる」
「シェパードの件は?」
「公にはなるまい。だが我々と、かの国は親しい。我が国の情報局に頼んで、お前とマクタビッシュの件は少々、融通を利かせて貰った」
「少々……か」
 どれくらいの代償を払ったかは分からないが、安い買い物ではなかったはずだ。だが、取引材料はいくらでも転がっていることは分かる。少なくとも、先の戦争の引き金となった、アメリカの将軍の扱いなどは、特にその材料になったことだろう。
「それで?」
「お前は公式に、変わらず我が国の軍人だ。大手を振るって帰ってくるといい」
「なるほど」
 そこで、マクミランは思い出したように、懐からシガーケースを取り出した。そうして、プライスへ差し出す。勧められるままに、葉巻を取り出すと、マクミランは手元でマッチを擦り、プライスが咥えた葉巻の先へと近づけた。
 赤々と灯る火を見て、マクミランは、オイルライターで葉巻に火をつけるのを嫌っていたことを思い出した。しかしそれは、戦場では、あまり出来ない贅沢だった。
 思わず、口元に笑みが灯る。それを見て、マクミランも笑みを刷いた。
 紫煙が立ち上る。狭い車内を曇らせて、白く消える。
 しばらく目でその煙を追っていたが、やがて、マクミランがまるで謳うように呟く。
「さて、ジョン。神は全ての者が救われ、真理を知ることを望んでおられる。……神を信じるか?」
 強い訛りも相俟って、本当に、詩のようだった。唐突な言葉に、プライスは眉を寄せる。
「何が言いたい? まさかとは思うが、年を食って信心深くなったのか?」
「お前のそういう、恐れを知らんところを、私はとても気に入っているんだ」
 目尻に深い皺を刻んで、マクミランが笑う。人懐こい、人好きのする笑みであった。それが食えないものであることを、プライスは疾うに知ってる。
 少しばかり身構えたプライスに向かって、マクミランは懐から薄い紙の束を取り出し、差し出す。
「これも、報酬だ。持っていくといい」
 労う風の言葉と共に差し出されたそれを、怪訝な面持ちで受け取る。それ自体は、何の変哲も無い、薄い数枚の紙切れだった。
 疑問に思いながらも、その折り畳まれた紙を開き、中を伺う。
 それは、プライスが想像したどのような予想とも違っていた。
 まず目についたのは、赤十字の記号。そしてそれは、英国軍に対する問い合わせ文章のようだった。
 読み進めていくうち、ある記載で、プライスの手が止まる。
「……これは」
 思わず問うように、視線が上がった。バックミラー越しのニコライは、不思議そうに瞬いたので、隣のマクミランを見れば、彼は葉巻を咥えたまま、肩を竦めた。
「心当たりが?」
 その言葉の、わざとらしい響きときたらない。平時であれば、蹴り飛ばしてやりたいくらいの気になっただろうが、プライスには、今、その余裕はなかった。
「……勿論、ある」
 それに答える、声が震えた。
「なんだ? どうした?」
 ニコライは状況を把握できないのか、声を上げて後ろの様子を伺っているが、マクミランはそれに答える気が無いのか、信じられないようなものを見るような目で紙の束に視線を落としたプライスの肩に手を乗せると、
「お前には任務後、しばらく休暇を与えることにしてある。どこに行くにも自由だ。迎えに行ってやるといい」
 と、酷く優しい声で告げる。
 それは、見たこともない神よりも、よほど信じられる声であった。



 曰く、戦災に見舞われたチェコでは、一人の国籍不明の男性が、赤十字の拠点に運び込まれたらしかった。
 運び込んだ二人の男が言うには、レジスタンスの人間ではないという。
 出血があまりに酷く、また、運び込まれた際には心肺停止状態であったと言うが、運び込む道中でレジスタンスの者から施された止血の応急処置が功を奏し、なんとか一命を取り留めたという。
 レジスタンスの人間から聞くに、協力関係にあった英国人と、身体的特徴が一致することが分かり、戦争が終結して後、赤十字から英国軍に問い合わせが来たようだった。
 プライスには、その人間の身体的特徴には、酷く覚えがあった。
 右の眉から頬にかけて傷があり、所謂、モヒカンという特徴的な髪型をしている、とのことだ。
 一帯はまだロシア軍との軋轢があり、敵国の人間には容赦が無いことから、幸いと、ずいぶんと慎重に匿われているらしい。
 プライスは現地の空港でマクミランと別れるとすぐ、ニコライに連れられ、一路、チェコへと飛んだ。
 空港には、見覚えのあるレジスタンスの首魁だった人物が待っており、書類に記された“彼”が匿われている場所へと、案内をしてくれた。
 道中に聞いた話によると、心停止の時間が長かった故か、まだ目を覚まさないらしい。
 たどり着いたのは、古い作りの、赤い屋根が鮮やかなごく普通の民家だった。
 こんな場所にと思わなくはなかったが、それまでに見た街の風景と違って、空爆にさらされた様子もなく、壁に銃弾の後が少ない。当時は、比較的安全な地域であったのだろうと知れた。
「街にも帰ってくる奴らが増えてる。アンタ達が彼を迎えに来てくれて、正直助かった」
「ソープを運んでくれた奴らというのは?」
「あの中で、逃げ遅れた連中だったらしい。すまないな、赤十字の人間も、俺もあまりその辺は知らないんだ。その後も戦闘があったし、今のところ、名乗りを上げる奴はいない」
 会話を交わしながら、それでも彼らは用心深く周囲を伺い、建物の中に入る。
 元の住人は逃げてしまったのか、人の気配は薄い。
 比較的狭い玄関の、すぐそばにある階段を上がって、レジスタンスのリーダーはすぐ突き当たりの部屋を指さした。
「あそこだ」
 示される場所に、プライスは出来る限りの速度で進んだ。先の戦闘で足を痛めたのが、今更悔やまれてならない。
 半ば転がり込むような勢いで開けた部屋の中央に、凡そ普通の部屋に似つかわしくない、医療器具が並んでいる。それに囲まれるようにして、見慣れた人影が、横たわっていた。
「……ソープ?」
 思わず、呼びかける。遅れてやってきたニコライが、後ろで息をのむ音が聞こえた。
 二人分のそれに答えたのは、彼の生命を維持する機械の、規則的な音だけだった。
 頽れそうになる足を叱咤して、部屋の中央に歩を進める。のぞき込むようにして、見下ろしたソープの顔色は、お世辞にも良いとはいえない。
「ソープ!」
 ニコライも、転がるようにやってきて、彼に呼びかける。
 五ヶ月、眠り続けているらしい部下は、矢張りそれには答えなかった。
 プライスは寝台のすぐ傍の椅子に腰を落ち着けながら、点滴が刺さってる腕に触れてみる。確かな体温を感じて、詰めていた息を吐いた。
「うう……っ!」
 すると、隣から鼻を啜る音と嗚咽がして視線を動かすと、顔を真っ赤にしたニコライと視線がかち合った。目や鼻から大量に水を出している様は、いっそ毒気を抜かれるほどで、プライスの呆れた顔を見て気まずくなったのか、ニコライはぐしゃぐしゃになった顔を拭うと、
「ちょ、ちょっと、外の様子を見てくるからな!」
 と、謎の宣言をし、ニコライはどかどかと足音を立てて部屋を出て行く。
 取り残されたプライスは、暫くニコライが去った扉を見つめていたが、やがて、眠りこける部下の顔をぼんやりと見下ろした。
 それはかつて、諦めた命だった。
 あの状況下では、置いていくしかなかった。そんな経験は、戦場に身を置けば、一度や二度ではない。しかし、体験した中でも、一等、離れがたかった。
 ふと、誰かが言っていた言葉を思い出す。
 ソープは、プライスの不在の折り、プライスを取り戻すのを諦められなかったと。あれは、誰の言葉だっただろうか。
 逆の立場になって、その言葉が理解できた。これは、諦められるものではなかったと。
 試しに、力なく落とされた手を拾い上げてみる。
 意思がないせいか、少し重たく感じるそれは、握り返してくることはなかったが、血の通った人間の体温をしている。今は、それだけでよかった。
「ソープ、迎えに来たぞ。起きろ」
 そうして、プライスは、眠ったままの部下に小さく呼びかけた。



 空を往く輸送機は、タラップを開け放していた。
 酷く轟音がするはずであったが、不思議とその音は聞こえない。
 座席に座っていた彼は、誰かに呼ばれた気がして、顔を上げた。しかし、其処には誰もいない。
「……?」
 それどころか、広い輸送機の中には、誰もいなかった。
 不思議に思って立ち上がり、通信機に触れてみる。
「誰かいないか?」
 しかし、返答はおろか、機器の音さえ帰ってこない。
 何故、此処にいるのか思い出せなかった。それ自体は見慣れた風景であるのに、酷く違和感がある。
 彼は仕方なしに、開け放たれたタラップのほうに進んだ。慣れた降下訓練の最中かもしれない。
 吸い出されるようなことがないよう、注意しながら進もうとして、すぐに気がついた。風圧もないのだ。
 なにもかもがおかしい。
 今まで、どのような状況下にあっても、努めて平静に任務を熟してきた彼が、珍しく見せた戸惑いであった。
 彼が途方に暮れかけたその時、
「大尉。マクタビッシュ大尉」
 すぐ後ろで、聞き慣れた飛び抜けて明るい声がした。
 肩越しに振り返ると、やはり、其処には見慣れた姿がある。
「ローチ。……ゴーストも。いつから其処にいたんだ?」
 いつの間にか、其処には彼の部下二人が立っていた。
「はあ? 何寝ぼけてんですか。ずっといましたよ」
「……は? いや、そんなはずは」
 まさか先ほど無人だったはずの機内を見間違えるはずはない。そう思って改めて視線を動かすと、二人の後ろには、見慣れた部隊の部下達が乗っている。彼の視線に気がついて、皆こちらを見ていた。笑って手を振る者、呆れたような顔をしている者と様々だが、確かに彼の部下だった。
「……」
 思わず閉口する。そうせざるを得なかった。困って眉を寄せる彼に、ローチは肩を震わせて笑う。
「それはそうと、マクタビッシュ大尉。中尉から聞きましたけど、約束したんですって?」
「は? 何のだ」
「ですよね、中尉?」
「ああ、まあ。でも、それすみませんが、反故で。俺よりやりたい奴がいるらしいんで」
「待て、脈絡がない。一体、なんの話だ?」
 突然ローチが語り出した内容に覚えがなく、彼は困惑を深めるばかりだった。
 いつもは冗長なお喋り好きの明るい部下は、珍しく、そんな彼の様子を気にするでもなく、また説明するでもなく、居住まいを正した。
「じゃあ、その前に」
 そう言って、思い切り息を吸うと、背筋を伸ばし、軍隊式の敬礼を披露する。
「マクタビッシュ大尉と様々な任務にご一緒出来たこと、光栄でした!」
「馬鹿。うるっせえぞ」
「あいたっ!」
 しかしすかさず、ゴーストから鉄拳を食らって黙らされる。ローチはそれでも、叩かれた頭をさすりながら、
「たくさん助けてくださったこと、忘れません」
 と、彼に向けて微笑んだ。それは酷く、穏やかな笑みだった。
「あー……、まあ、俺も、ご一緒出来て光栄でしたよ、マクタビッシュ」
 そして、ゴーストもそれに続いた。
 だが、言い様のない違和感に、彼は返答に窮した。
 これでは、まるで、別れの挨拶のようだ。
「じゃ、そういうことで」
 だが、その違和感を掴む前に、一切の容赦なく、彼の副官は言葉を切った。
「いや、待て。どういう……」
 しかし説明を求めて二人を見比べる前に、その二人の間を割って、人影が目の前に進み出たのが先であった。
 本当に、いつからそこにいたのか、酷く見知った顔であった。
 その人を忘れるはずがない。
「よぉ」
 短い挨拶と共に、見慣れた顔が、見慣れた笑みを浮かべる。
「ギャズ……?」
 その名を呼ぶと、彼の顔をのぞき込むような至近距離で、今まで見たことのないほどの満面の笑みを、ギャズが浮かべた。
「大尉を蹴り飛ばす役は、その人が務めますよ」
「次はくれぐれも、白髪になってから来てください!」
 視界の外から、彼の部下が訳の分からないことを叫んだ。
 それと、腹部に鈍い衝撃が来るのは同時だった。
 容赦なくギャズに蹴り出されたと状況を把握し、次いで身体が浮いた、と自覚した時には、タラップを超えていた。今まで感じなかった風圧が一気に彼を外へ押し流す。
 ごう、と風が吹き付けて、視界を乱した。
 上官の、或いは部下の姿を探して目をこらしたが、遠ざかるばかりで判然としない。
 そのまま落ちていく彼の耳に、笑い声がした。
「プライス大尉のこと、頼んだぞ。クソ新兵」
 よく知った揶揄うような声だった。もう新兵じゃない、と言い返そうと思ったが、それが言葉になったかどうかは分からない。
 強い風にあおられているからだろうか、息が苦しい。
 次に妙な音を聞いた。何か、高い、規則的な音だ。
 誰かが呼んでいる。でも、誰が?
 途端に身体が重たくなる。喘ぐように息を吸って、やがて、無理に開いた視界がぼんやりと形を映した。
「ソープ!」
 途端に耳朶を打つ、それは目の覚めるような、プライスの声だった。
 ぐるり、と視界が回って、何度も瞬く。そこで、漸く、ぼけた視界が焦点を結ぶ。どこか焦ったように、のぞき込んでいるのは、矢張り、プライスに違いなかった。
 プライスと、名を呼ぼうとして、しかし声が出なかった。
 代わりに、視界の端に彼の手を取っているプライスの手が見えて、応えるように握り返した。おそらく、そうできたはずだが、恐ろしいほどに力が入らなかったように思う。それでも伝わったのだろう。プライスは強く頷き返してくれる。
「……二度も死ぬなと言ったろう」
 目が覚めて、最初に聞くのが苦言であるとは思わず、しかしそれがプライスらしいとも感じて、ソープは息を吐いた。本当は、笑おうと思ったのだが、うまく出来なかった。
 全身はすっかり萎えてしまったように言うことを聞かず、力は入らなかったが、何度も何度も試みて、ようよう、声に出す。
「……プ、ライス……」
 その間、プライスは意外にも、辛抱強く傍で耳を傾けていた。
「マカ、ロフは……?」
 どれくらい眠っていたかは定かではないが、一番の懸念事項を訊くと、以外にも、プライスは鷹揚に頷いて話し出した。ただ、まだ目覚めてろくに体力の無いソープが、起きてられる間に少しずつ、時間をかけて話していった。
 それからの世界のこと。
 マカロフのこと。
 デルタフォースのこと。
 そして、ユーリのことを。
 よく見れば、顔と言わず手と言わず、プライスはあちこち生傷だらけだった。
 それから数日の後、身体を起こせるようになって漸く、足まで折ってることを知った。
 最後の最後でマカロフを追い詰めた方法をきいて、文字通り、彼は頭を抱えたし、それを見たニコライも深く同意していたが、本人はどこ吹く風だった。
「またとんでもない無茶をして。ギャズも嘆くわけだ」
「ギャズがなんだと?」
「死んでも地獄から心配しそうだって話です」
「余計な世話だ」
 にべもない返答を訊いて、ソープは思わず笑った。きっと今度、目覚める前に見た夢の話を、プライスにもしようと心に決めて。
 やがて、医師も目を瞠る程の速度で回復をした彼が、ベッドから離れられるようになる頃、プライスは少し窶れた風のソープへ、こう、声をかける。
「ソープ。そろそろ、帰るか?」
 どこに、と、彼は問わなかった。
 訊くまでもなかったからだ。
 彼は口元に笑みを宿した。返答は、言うまでも無かった。





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