世界が未曾有の戦火に晒され、その終わりを見てから数年。どこもかしこも混乱の最中にあり、各地でその余波によって様々な影響が出始める中、とある街の一角で、小さく蹲る子供が居た。
子供には親がなかった。
そして、親の手を離れた理由を、子供自身は知らない。いつからか其処に居て、誰の庇護もない儘に、生きていかなければならなかった。
しかし幸いなことには、子供は他よりも秀でていた。その日を生きるに足る力を、幼いながらに備えていたのだ。
たとえば、狡猾であること。
たとえば、人より秀逸な見目であること。
ただ、それは糊口を凌ぐには足りても、苦境を脱するには足りるほどのものではなかった。
狭い路地の上、子供のような境遇の者は掃いて捨てるほど存在する。混沌としているように見えて、しかし社会があり、強者に食い潰されず上手く立ち回る者しか生き残れない。恰も今の社会の、或いは生物としての世の縮図のような。
つまるところ、世界が混乱の最中にあって、その子供は、ありふれた不幸のうちの一つにすぎなかった。
雪が舞っていた。
狭い路地から除く狭い空、その鈍色の雲は分厚い。経験から察するに、これから寒くなるだろう。
地下の安全な塒は寒さを凌ぐことは出来ても、当然、空腹を紛らわしてはくれない。生きるには、まず、その日の糧が要る。
本格的に雪が積もる前に、ある程度の蓄えが必要であった。
しかし、子供に出来る仕事など限られている。物乞いとして路上に立つより、他人の持ち物からくすねた方が効率が良い。
雪が降って積もる時期は跡が残る。つまり、逃げた後を追い易くなる。それは彼のような子供には、死活問題に繋がった。かといって、どのみち蓄えがなくなれば、それも死に直結する。ただの風邪も、小さな怪我も、同様だ。ここではほんの些細なことが、全て命に関わる問題なのだ。
子供は空を忌々しげに見上げてから、大通りに視線を戻した。
自由気ままに舞い遊ぶ雪には最早構うことなく、足早に歩く人々を、注意深く観察する。
狙うのは、子供でも容易に相手取れる者でなければならない。例えば女性、老人などだ。
倫理や道徳などは、路上生活何の役にも立たない。子供はそういう点に於いて、躊躇などしたことがなかった。
そして、子供は雑踏の中に違和感を見つけて、そちらを見る。
すると、一人の男と目が合った。
大抵、彼のような浮浪児は、誰にとっても透明な存在だ。いても居なくても同じで、景色の一部に過ぎない。良くて憐れみの目が向けられるか、悪ければ嫌悪と共に罵声か暴力が降りかかる。目など合ったところで、すぐに逸らされるのが落ちだ。
しかし男は確実に、子供を注視していた。目が合って逸らされず、そして、観察するような面差しには温度を感じない。
それが常人のものではないと察した子供の行動は早かった。
抱えていた膝から手を離し、素早く立ち上がると、何気ない風を装って雑踏に紛れる。
長い襟に顔を埋め、暫く歩いてから、細い路地に入った。暫く冷たい壁に背を押し付けて、やってきた方向を覗き込む。
あの男が何者であるのかは定かではないが、警察や治安維持の軍属であった場合、碌な目に合わないことは経験で知っている。
正義を傘に着る者は、道を外した者に残酷だ。先日、盗みをしくじってその手の連中に手ひどく痛めつけられた老人が、翌日路地裏で動かなくなっているのを見掛けた。彼らは相手が子供であるからといって、加減をするような者達ではない。少なくとも、子供はそう理解していた。
暫く通りを眺めて、先程の男が居ないことを確認した子供は、改めて、標的の物色を始める。
それほど間をおかず、身なりのいい細身の女性が眼前を通り過ぎた。
子供は彼女を目で追い、一人で行動しており、改めて周囲に厄介な大人が居ないかを確認した。そして、それらの確認が済むと、女性の後を追う。
行動に出る時には、絶対に必要な条件がある。
予め複数の逃げ道のある場所であることだ。そして、人が多い時間帯のほうが好ましい。小さな子供は、大人の中に紛れれば分かりづらいからだ。
この先を少し行けば、通りがわずかに細くなる。
夕刻の少し前の人が多くなる時間帯、狙った通り、道の向こうは人が多いようだ。
子供は足を進める速度を早めた。
女性との距離を詰め、彼女が左の腕にかけている小さな鞄に狙いを定める。退路の路地を視界に入れ、頭の中で思い描いた。
彼女が雑踏に紛れるその瞬間、子供は地を蹴って手を伸べる。
その指が、女性の腕にかかった鞄に触れる、その刹那。
「……っ!?」
なんの前触れもなく、後方へ身体を引っ張られる。
襟元を何者かに掴まれたとすぐさま気付いた子供は、振り向きざま、精一杯の抵抗として腕を振った。握った拳の先、分厚いコートを掠める感触だけを残して、そのまま地面に引き倒される。
地に転がった子供に、何事かと周囲の人垣が割れた。
一瞬で衆目を集めたと察した子供は、痛む身体に鞭打って、跳ねるように起き上がった。
想定していた細い路地目掛け踵を返そうとして、しかし、すぐにその細い腕を捕らえる者がある。それを咄嗟に振り払おうとしたが、びくともしなかった。
子供は空いた手で素早く懐を探る。今にも朽ちそうなベルトに引っ掛けていた小さな小刀を探り当てると、振り返りざまに腕を捕らえている者へ向けた。
だが、その切っ先は届くことなく、易易と手首をひねり上げられ封じられた。小刀は手を滑り落ちて、石畳を転がる。酷く容赦のない力で拗られた腕はこれまでに経験がないほど痛んだが、子供は歯を食いしばって悲鳴を上げなかった。代わりに、自らを捕らえている者を睨みあげる。
「野良犬のようだが、悪くない」
そこに咎めるでもなく、責めるでもない、静かな声が降った。いっそ場違いなほどの声音に、子供は動きを止めて思わず瞬いた。
見上げた先に居たのは、如何にも怜悧そうな男だった。
「……さっきの」
そう、先程子供を観察していた男だ。
子供と目が合って、男は口の端を吊り上げる。そんな風に、子供に笑いかける大人は珍しい。子供は状況も忘れて、口を開けて男を見上げる。捕える力はとうに緩んでいたが、逃げ出すことさえ忘れた。
「ペルセウス!」
すると、男のさらに後方から、人垣を割って、小太りの神経質そうな老人が現れた。分厚い眼鏡を押し上げて、老人は男を睨む。
「いきなり、どう……したのですか? その、子供は?」
言い差して老人は子供に視線を移した。一目で浮浪児とわかったのだろう、睥睨と言うよりは侮蔑に近い、子供には慣れた眼差しが飛んできた。
「拾い物だ。なかなかに見どころがある」
「……は? まさか」
老人は零れ落ちそうなほどに目を瞠って絶句し、子供と男を見比べる。やがて男の言葉に理解が追いついたのか、これ以上無いだろうという渋面で男を見据えた。
「孤児院でも開く気ですか?」
そんな老人の嫌味など全く意に介さず、或いは聞こえてすら居ないかのように、男は子供を見下ろした。
「お前、名は?」
「……野良犬」
「何だと?」
「あんたがそう言っただろう。みんなこの辺じゃ、僕らのことをそう呼ぶ。名なんてなんの意味もない」
「そうか。ならば、つけてやらねばな」
言って、男は着込んだ外套を脱いで、子供の肩に掛けた。あまりにも体格に違いがある所為で、簡単に汚れた地面につくそれを、男が気にかけた様子はない。薄汚れた姿に不釣り合いな、大きく分厚い外套はずっしりと重たかった。
驚きに目を瞠った子供を、男は有無を言わさず抱え上げた。
「えっ、うわっ!?」
上背のある男に抱えられると、視界が一変する。普段見ることのない、様々なものが見えた。
思わず周囲を見渡した子供に、男は笑いかける。
「私と来い、子犬。どうせ、行く所などないだろう」
男の言葉に、子供は彼に視線を戻してから、殆ど反射的に顎を引いて頷いていた。すると、男は満足そうに頷き返す。
視界の外で、老人の大仰な嘆息を聴きながら、子供はもう一度周囲を見渡した。
世界が大きく、変わって見えた。
曇天に、一発の砲声が響いた。
その音に、慌てた様子で近くの枯れ木の枝に停まっていた鳥が、飛び去っていく。彼はその羽音につられるようにして、空を見上げた。
重く頭を垂れるような雲に覆われた空は暗い鈍色をしており、青の色合いは一片たりとも見当たらない。見上げる視界に、ふわり、と吐いた息の白さが際立つ。
(今日あたり、降るかもしれない)
ソビエトの冬は長く厳しい。首都では、十月に入れば雪が降る。
引き金を引く感覚が鈍るからと、手袋を外した指先は、既に冷えていた。
そうして空を仰いだ彼の後方で、落ちた葉を踏む音がする。
「此処にいたか。精が出るな」
声のした方を振り返り、佇むその人を見て、彼はふと既視感を覚えた。その人と彼が出会ったのも、こんな雪の降りそうな寒い日だった。
あの日、狭く汚い道の上、野良犬のように拾われた彼は今や、一人の兵士として成長を遂げた。大人になるだけの年月を経ても、彼はそれを、昨日の事のように思い出すことができる。
けれもど、あの日見上げるほどだった彼の拾い主のその髪色には、歳月を如実に示す白い色が目立った。昔は見上げるほどだった目線の位置も、今や同じほどになっている。
「どうした?」
彼は一つ嘆息を吐いた。その目に見える白色が消えるより早く、彼は自らが着込んでいた外套を脱いだ。
こんな寒空の日に、外套を置いて出歩いているその人のその肩に、歩み寄ってそれを掛ける。
「風邪を引きます。今、貴方に倒れられては困る」
彼の養親とも言って過言でないその人は、肩に掛けられた外套に視線を落とすと、目元を和らげた。その目尻に寄った皺にも、歳月を感じる。
「甲斐甲斐しいものだ」
ペルセウスと呼ばれる一団を率いる主であるその人は、人目さえなければ、彼を身内のように扱うことが多かった。養い子である彼も、その扱いに甘えて語調を和らげがちだ。家族というよりは上官のような、決して気安い存在というわけではなかったが、それでも、数多いる構成員よりは近しい存在であった。
掛けた外套の襟元を撫でたその人は、目元の笑みを深める。
「嘗てと逆だな。野良犬が立派になったものだ」
彼はその一言に苦笑を漏らす。きっと、思い出した風景は一緒であっただろう。
「昔の話を蒸し返すのは老いの証拠だと言いますよ」
「年寄り扱いするな。生意気な子犬め」
「今じゃ、私を子供扱いするのは貴方だけだ」
「お前はいつまで経っても子供だ。私にとっては、な」
「……そう、ですか」
素直に受け取るには、やや面映ゆいそれを、彼はなんとか受け止め、顎を引いて頷いた。
「さて、今日はルドニクがこちらに来る事になっている。お前も同席しろ」
「珍しいですね。なにか確認事項が?」
「いや、KGBの所用で近くに来ているそうだ。功労者は労って置かねばな」
それを聴いて、彼は息を吐くように笑った。
彼の養い親は、本当に、人心掌握に長けている。求心力があり、誰からも慕われている。この人のために、死ぬことができる者は多いだろう。丁度、彼がそうであるように。
「ルドニク少佐が来るのは、すぐですか?」
「午後だな。その前に、食事でもどうだ?」
「喜んで。先に戻ってください。片付けを済ませて、行きます」
「……あまり待たせてくれるなよ?」
勤勉すぎる兵士に釘を指すような、上官らしい言葉を残して、彼の養い親は踵を返した。
その背を見送っていると、視界に、小さな雪が舞った。
それに釣られて上天を見上げる。鈍色の重たげな雲から、一つ、また一つ、ゆっくりと降りてくるそれを見る度、彼は未だに、あの路地を思い出した。
彼が所属するようになった場所を、偉大なる祖国、と人は言う。
人の口に登る枕詞のようなそれを、彼が真の意味で理解出来たことはなかった。
路地裏で生まれ育った子供が大人になっても、それは同じだった。祖国という言葉は遠く、故郷という言葉も凡そ理解の範囲外だった。それに対して愛着があり、帰属意識がある周囲とは常々乖離を感じていたが、彼はそういうものか、と曖昧に了解していた。そのあやふやな理解の上で、故郷と言われて思い出すのは、あの汚い路地だったが、彼がそれを口に出すことはなかった。
彼があの時手を取ったのは、そのような大仰な目的のものではなく、ただ生きるためだった。その延長で、彼を拾った者の役に立つこともまた、生き延びるために必要だったからだ。
やがて生きることに余裕が出来てみると、養い親や祖国と呼ばれる者の大義のため、彼は死を厭わない駒の一つになった。
ただ生きるために、その手を取ったはずなのに。
彼はしばらくぼんやりと空を見上げていたが、一つ、強く冷たい風に頬を打たれて、ゆっくりと息を吐いた。
目を閉じれば、未だに鮮明に思い出せるあの薄汚い街は、心にある。
けれども、あの時、生きることに懸命だった気持ちだけは、今は遠いことだけを、感じていた。
襲撃されたトルコの飛行場には、アラーシュの死体以外は見つからなかった。
報告書には彼の養い子について、行方不明、とだけ書かれている。
窮状にも関わらず、ただそれだけの文字は、素っ気ない。彼は小さく息を吐いて、その報告書を机の書類の上に放った。
深く腰掛けた椅子が、ぎしりと音を立てる。
思い浮かべたのは、彼の養い子の嘗ての姿だった。薄汚れて、路地に蹲り、あたりを注意深く観察しながら、生き残る術を探していた。それは一匹の、獣のようだった。
彼は、その幼い子どもに、興味を引かれた。
ソビエトの長い歴史の中で、ただ与えられたものを享受する社会では持ち得ない、強い向上心。己のものを獲得しようという野心という点において、ただの駒とは一線を画す者の素質を、果たして、彼はその子供に見たのだ。
(あれが簡単に死ぬはずはない)
後見人として、目をかけ、息子のように育てた。厳しい軍隊でも潰れることなく、組織の中でも当然のように頭角を現した。
そうして、子供は望んだ通りに、彼の右腕或いは、後継たる資質を示していた。立派に育ったあの子供の、彼への忠誠もまた篤いことを、良く知っていた。あの儚げな見目と裏腹に、不屈の意志と、強靭な肉体を持っている。
生きていれば、必ず、彼の元に戻るはずだ。戻らないということは、なにか不測の事態が起こっているに違いなかった。それが何かは知る由もないが。もしも、何らかの理由で、彼の下を去ったというのであれば、裏切り者には報いを受けさせなければならない。それが、例え、目をかけた子供であってもだ。
彼は再び、肺を空にするほどの重い嘆息を一つ吐いてから立ち上がると、椅子にかけてあった外套を羽織った。
慣れた重みが肩に乗ると、机上に放られた書類に書かれた、彼の名付けた子供の名前を一瞥した。
それから数日後、彼の元に一報が入る。
曰く、彼の養い子によく似た人物が、CIAに所属しているとのことだ。添えられた写真は見間違いようもなく、その人であった。
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