迷いのないゆっくりとした足音が響き、次いで、
「誰だ?」
誰何する声が上がる。マーシャルの声は切迫していた。
それを聞いたウッズは眉を寄せ、腰に隠した銃を取りながら、肩越しに振り返る。しかし警戒した様子もなく、作戦室へと入ってきた人影をみて、すぐに愁眉を開いた。
すらりと背の高い、影のある、目を惹く顔。ロングコートの裾を揺らした彼は、全くの自然体で、片手を挙げた。
「やあ、ウッズ。久しぶりだな」
「……ベル」
ベルの様子は、さも、慣れ親しんでいる人に向けるそれだった。
マーシャルが露骨に眉を寄せながら、ウッズとベルを見比べている。言外に目線で問われ、
「気にすんな。こいつは……」
ウッズは車椅子の向きを変えながら、ベルを示すに相応しい言葉を探す。経歴が複雑すぎるベルの説明は、とても一言では足りない。かといって、ウッズはベルについてそれほど詳しいわけでもない。やがて考えているうち、彼は説明が面倒になった。
「……アドラーの犬だ」
すると、そのあまりにも雑な紹介にベルは目を丸くしたが、すぐに片笑んでから、
「バウ」
と、吠え真似まで添え、戯けて見せた。
当惑を隠さないマーシャルがベルとウッズを見比べる。警戒を解かない用心深さは合格だが、当のベルはマーシャルの存在を歯牙にも掛けた様子はない。
彼は作戦室のすぐ脇にある、ウッズの机に荷物を下ろした。黒く、大きめのボストンバッグだった。
「なんの用かと思えば、まさか配達か?」
「そのまさかだ。人使いの荒い飼い主の命令でな」
「それは?」
「フェノソラジン。わかりやすく言えば、MKウルトラの遺物だ」
ベルが短く答えた言葉に、ウッズは露骨に顔を顰めた。その意味が正しく理解できるのは、この場ではウッズだけであっただろう。
「あいつ、これをお前に預けてたのか?」
「厳密にはそうじゃないが、まあ、似たようなものだな」
「……よく引き受けたな」
「私は躾のよく出来た犬だから」
冗談交じりに答えるベルは、穏やかな笑みを崩さない。
「アドラーが何故そんなものを」
MKウルトラと呼ばれる悪名名高いそれは、CIA内外では語り草になっている。当然、マーシャルも知るところであった。
マーシャルがベルの手元のボストンバッグを、警戒しながら伺っているのを見、ベルは笑みを深めた。
「君には刺激の強い話かもしれないが、これは、あの男の得意とする分野の一つだ。君も覚えておいて損はないかもしれないぞ。なあ、ウッズ」
「こいつは割と身綺麗なタイプでな」
「はは、若い世代らしいな。では、私が受けた憂き目を知れば、アドラーの危険性がわかるかもしれない」
「おい。奴は味方だぞ。解ってるだろうが」
「もちろん、誰より解っているとも」
肩を竦めたベルは、ミッションボードを一瞥し、其処に貼られている写真に目を留める。口元に浮かべた笑みは、消えない。
「……捕まったようだな?」
誰が、とは言わなかったが、ウッズにはそれを問う必要がなかった。
「ああ」
「そうか。まあ、無事にアラウィの始末はつけたのなら、あいつとしても御の字と言ったところだろう」
「お前も来るか?」
「いや、私にもやることがある。お前たちに任せるよ」
アドラーの危機と聞けば、以前のベルであれば血相を変えそうなものだったが、どうやら今はそうではないらしい。この十年、彼とアドラーの間に一体どのようなやりとりがあったのか、ウッズは知らない。ウッズの物言いたげな眼差しを受けて、ベルは付け足した。
「それに、あれが簡単にくたばるものか。アドラーは私のものだし、もし死ぬのだとしても、私が殺す以外にはない」
なんとも不穏な物言いに、ウッズのみならず、マーシャルまでが眉を寄せた。
彼らを見比べてから、ベルは笑みを深め、裾を翻す。
その背に、ウッズは思わず声をかけた。
「おい、伝言も無しでいいのか?」
「必要ない。どうせ、のうのうと出てきて、あっちから無理難題をふっかけてくるからな」
「お前も苦労してんなあ……」
「ふふ。そう言ってくれるのは、あんただけだよ。ウッズ」
肩越しに振り返って、ベルは苦笑した。そこに苦労が忍ばれて、ウッズは思わず笑ってしまう。
「ではな」
去っていくベルの背を、今度は止めなかった。
その姿が見えなくなって漸く、マーシャルは警戒を解いた。
ややあって、ベルが去った方を眺めながら、
「随分、反抗的な犬だったな」
と、率直な感想を漏らす。
「そうか? 可愛いもんだろ」
マーシャルは、過去、ベルにあった出来事など知る由もない。端から見れば、そう見えておかしくないのかもしれない。
ああ見えて、ベルは優秀だ。腕も立つ。さぞ、アドラーに良いように使われているに違いない。
ウッズは車椅子を進めて机に寄せると、ベルが運び込んだ大きめのバッグを膝の上に乗せた。
中身を開くと、以外にも、一番上にはアドラー愛用の煙草が幾つか入っている。
「……気が利く犬だな」
そうして、ウッズは煙草を取り出して、懐にしまった。
***
数コールを経て、通話は繋がった。
アドラーが口を開く前に、耳元で、小さく笑う気配がした。
「脱獄おめでとう。どうだ、有名人になった気分は?」
それは明らかな揶揄だった。
ブラックサイトから抜け出して以降、本格的に本国から追われる身となっていることを、受話器の向こうの人物、ベルは把握しているようだった。
「今どこにいる」
アドラーは、冗談を無視して端的に問う。
「言われた通りの場所に。彼女とは連絡がついた。条件付きで、協力してくれるそうだ」
「条件は?」
「直接訊くといい。連絡先は渡しておいた。すぐにそちらに連絡が行くだろう。他にご希望は?」
秘匿するべき情報を、ベルは電話越しに多くは語らない。いつものことだった。アドラーは僅かに逡巡してから、思い当たる人物の名を挙げた。
「シムスに連絡を取れ」
すると、受話器の向こうからは、僅かに躊躇うような気配がした。
「……あいつは嫌がるだろうな。受けると思うのか?」
その指摘が意味することを察したが、今や追われる身となったアドラーに、切れるカードは限られている。
シムスは、そのうちの一人だ。
「必要なことだ」
「あんたにとってはそうだろうが……。まあ、とりあえずやってみるよ」
半ば呆れたような、おざなりな返答が返ったのを確認して、アドラーは別れの言葉一つ告げずに通話を切った。
端末をテーブルに置き、灰皿に掛けた吸いかけの煙草を手に取ると、作戦室から声がかかった。
「ベルか?」
アドラーが振り向くと、車椅子を押しながら、ウッズがやってくる。
「ああ」
「今どこにいるんだ、あいつ」
「イラクだ。パークに連絡をつけさせていた」
煙草を咥えると、なれない風味がする。いつも好んで吸うものは、今は手元にない。彼は紫煙を吐きながら、続ける。
「パークは、ベルに借りがある。あれからの申し出なら、多少の無茶は通すだろう」
「そりゃ、あいつへの借りだろう。それをお前の都合で使ったのか」
「なんの問題がある?」
悪びれる様子さえないアドラーに、ウッズは苦笑しつつ、肩を竦めた。
「……随分と従順な犬になったもんだ」
「褒美は与えている」
「お前が、あいつに? どんな?」
アドラーはその問いに、答えなかった。そうしてすぐに、ウッズは盛大に顔を顰める。
「……あー、いい。忘れろ。嫌な予感がする」
「訊かなくていいのか」
「言う気もねえだろ」
ウッズはこれ以上ない渋面の儘、器用に車椅子を操って背を向ける。
「ああ、そうだ」
言って、ウッズは肩越しに振り返ると、懐からよく見慣れた銘柄のパッケージの煙草を取り出し、アドラーにわかるように振って見せた。
「ベルに会ったら、コレの礼を言っといてくれ」
ウッズはこれみよがしに煙草を一本取り出して咥えると、そのまま作戦室の方に去っていく。
アドラーはウッズの背を見て、咥えていた煙草を手放すと、灰皿に押し付けて火を消し、溜息を吐いた。
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