海に面した、古びた屋敷に響くのは、崖下からの潮騒だけだった。
 人里離れたその場所には、彼以外、誰の気配もない。
 崖縁に作られた白い手摺に煙草の箱を置き、眼下で白く泡立つ波に視線を落としたアドラーの脳裏に、いつか見た北欧の海が過って、消えた。それを振り払うように、紫煙を吐き出して、踵を返す。
「傑作だな」
 すると、その背に向けて、声がかかった。
 肩越しに声のした方を振り返れば、無人であった筈の手摺に腰を下ろして、一人の男がアドラーを見ていた。
 痩身の、美しい顔立ちの男だった。しかし、その目には陰りがある。それは後ろ暗い世界に身を置く者、特有の陰りであった。その彼の色素の薄い双眸が、ひたと、アドラーを捉える。
 彼はアドラーの視線を受けて、薄い笑みを浮かべ、小首を傾げて見せた。
「あのラッセル・アドラーが、まんまと罠に嵌まるなんてな。様はない!」
 そうして、嬉々として大仰に肩を竦める。
 アドラーはその言葉に、答えを返さなかった。しかし、目も逸らさなかった。
「敵ながら実に天晴だな?」
 彼はアドラーが答えないことを気にした様子もなく、そうしてその言葉に微かに細められた、サングラス越しの目線も見逃さない。
「ふふ、アドラーにとっての敵は、私にとっても敵だ。……そうだろう?」
 彼はそう言って、裾を払って立ち上がる。四月に入ったばかりの冷えた空気を孕んで、長い外套が揺れた。
「ラウル・メネンデスに情報を売った奴は、お前達のことを、とても良く知っている」
 そうして彼はアドラーの隣を通り過ぎて、開け放した扉へと歩を進める。
「弱点が分かりやすいハドソンと違って、お前は与し易くない。人質も脅しも通用しないし、然したる弱点もない。スパイ冥利に尽きるな? まあ、上司がリヴィングストンだったことだけがラッセル・アドラーの弱点だったってワケだ。……とは言え、アドラー、ハドソン……メイソンとウッズか。なんとも、錚々たるメンバーじゃないか」
 ガラス戸に手を掛け、彼はアドラーを振り返る。
「さて、数ある伝説の中の、どの件で買った恨みだろうな? それとも、厄介でしかない古株をまとめて排除したいリヴィングストンのお望み通りってことか? うん、どれもありそうだ。敵が多くて困ったもんだな。お前達は日頃の行いが悪すぎる」
 彼の揶揄するような語調が癪に障って、アドラーは今度こそ、眉を寄せた。情報が正しければ、ハドソンもメイソンも、もう生きてはいない。アドラーにとって、それは笑い事では済まされないのだ。
 しかし、アドラーの不興を買ったとわかっていながら、彼は歯牙にも掛けない。
「ははっ、まあ、そう怒るなよ。何にせよ、これだけ派手に動いたんだ。相手が誰であれ、つつけば幾らでも綻びが出るだろう。敵の敵は味方というし、駒には事欠かなさそうだ。お前が得意な味方面が役に立つかもな」
 彼は、露骨に顔を顰めたアドラーに向かって、いっそ蠱惑的に微笑む。
「アドラーがやられっぱなしで済ます訳が無いだろう。さあ、反撃開始だ。何処から攻める?」
 問われて、アドラーは手に持った儘であった煙草を放り投げると、深々と嘆息した。
 思わず仰いだ空は、彼の鬱屈など知る由もなく、サングラス越しに見ても、そうと分かるほど晴れ渡っている。
 全く馬鹿げている。そう内心で吐き捨てた。
 アドラーは視線を戻してみれば、確かにすぐ傍に立っているように見えるその人は、アドラーの記憶の中の影法師にすぎない。今此処に居ない、過去の幻だ。
 名を、ベルと言う。
 ましてベルは、アドラーの味方でさえなかった。
 それなのに、彼が現れるときはいつも、一番の味方のような振る舞いを見せるのだ。
 うんざりとしながらも、アドラーは、今此処に居ない幻に向かって、応じることに決めた。
「イラクだ」
 答えれば、直ぐ傍の美しい顔は笑みの形を作った。


Vermillion


 ベルが死んだのは、凡そ十年ほど前のことだ。
 ソロヴェツキーの端、海の見える崖の上、アドラーが自身でその手を下した。
 そうしてベルは彼の記憶の底で、よくある出来事の一つとして、忘れ去られるはずだった。
 ところがその数年後、ベルが所属していた組織の一員にアドラーが捕まり、洗脳の処理をされた折に、どういうわけだか、まるで生きているかのようにベルがアドラーの傍に現れるようになった。
 その症状には前例がある。
 彼の洗脳を解いたメイソンも、同様の洗脳を受け、同じ症状を示していたのだ。
 洗脳が解けたアドラーを見たメイソンは、ふと物憂げな眼差しで、
「お前は……、誰かに会ったか?」
 と、問うたが、アドラーは答えを返せなかった。
 視線を上げた先、メイソンのすぐ後ろで、穏やかに笑うベルの姿が、見えていたとしても。
 曰く、メイソンは洗脳を施した者の姿を見るのだという。
 ではアドラーが囚われるより前に居なくなった筈のベルが、何故現れるようになったのか、その答えを知る人はいない。結局アドラーには、そういうものだと、納得するしかなかった。
 口には出さないが、おそらく今もメイソンはその症状と共に生きているようだ。それは一朝一夕に、消え去るものでもないのだろう。
 そうしてしばらくはベルが現れる度、彼はその幻に向けて様々なことを試みてはみたが、どれも成功はしなかった。撃ってみたところで、実態がなければ通用しないし、消えろと命じたところで消えるはずもない。
 やがて、アドラーには珍しく、その幻には諦観と共に、様子見をすることに決めた。
 実のところ、ベルは、ただ其処にいるだけだ。煩わしい、という一点を除いては、さして実害はなかった。そうしていつも現れるベルがアドラーの味方として振る舞うのは、彼が従順であることを求めたことの証左なのかもしれない。
 あの崖の上、二度と会うことないものと思った彼は、当時の姿の儘、今もこうしてアドラーの傍に寄り添っている。
 とある日、任務に就いたアドラーに、いつものように現れたベルの幻は、歌うように零した事がある。
『お前がなりふり構わずに目的を遂行する姿を見るのは、好きだ』
 冷戦の終わり、世界の動きは目まぐるしく、アドラーもまた休みのない日々を送っていた頃のことだ。
 深夜、薄ぼんやりとした暗がりの中で、不安定なヨーロッパ諸国の情勢をまとめていたアドラーは、その声に顔を上げた。
 たった一つのランプの明かりが届く範囲に、ベルが座っていた。
 恰もずっと、其処にいたかのように。
『私はお前の築いた犠牲のひとつ』
 彼は猫のように音も立てずに忍び寄り、アドラーが開いていた地図を指で叩いた。その長い指の下には、アドラーの祖国がある。
『つまり、お前の愛する世界は、私達の死骸の上に建つ砂の城だ』
 ベルはアドラーの頭の中にしか居ない筈の産物であるのに、時折、思わぬようなことを言うことがあった。
『だから、私はお前がその為に必死になるのを見るのが、好きなんだ』
 それはまるで、アドラーがベルの為に必死になっているとでも言うような言い草だったが、アドラーは勿論、そのようなつもりはない。無意識下の産物であったとしても、思わず失笑を禁じ得ない言葉であった。
「そうだな」
 しかし、アドラーはそれをあっさりと肯定して、手近な煙草の箱から、一本、煙草を取り出して火を付ける。
「数ある捨て駒の中で、お前は殊更、便利な駒だったよ」
 言葉と共に吐き出した紫煙の向こう、烟る視界の向こう、ベルは一度双眸を瞠ると、一度瞑目し、やがて陰のある瞳が緩んだ。
『当然、そうだろうとも』
 そうして、不格好な笑みを浮かべる。あの崖の上で、嘗てのベルがそうだったように。
 これが本当のベルであれば、なんと返しただろう。アドラーはそんなふうに考えて、埒もない思考だと思い直す。そんなものを考えたところで、無意味でしかない。
 アドラーは再び机上の資料に視線を落とした。
 そうして資料に没頭し、指に挟んだ煙草が燃え尽きる頃になると、今まで見ていた光景が嘘のように、ベルの姿は何処にもなくなっていた。
 しんと静まり返った室内を、姿を探すように彷徨った視線。己のその行動に、自嘲気味に笑みを一つ落とす。
 ベルの幻は拭い難い記憶と共に幽鬼のように付き纏い、きっと、死ぬその瞬間まで、アドラーと共にあるのだろう。
 彼は赤く囲われたベルリンの地図を一瞥し、ふと、そんな風に思った。
「ベル」
 アドラーは、そうして、なにもない空間に向けて声を掛ける。
 すると、彼のすぐ耳元で、彼の名を呼んで答える声が、確かに聞こえたのだった。






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