1.
東側の人間であるから、警戒するように。
ラザーがベルについて認識しているのは、その程度のことだった。
CIAの任務に協力するに当たって、彼がやるべきことは、拠点の確保、及びその周辺と各国の情報収集、そして、有事の際の戦力であった。
ベルに関する煩雑な作業は、アドラーとパークに一任されている。特に、パークはその専門であったから、ラザーは特にそれについて憂慮さえしなかった。
狭すぎず、かつベルの監視にも容易で、適当と思われるセーフハウスを用意し、そして実際に対面したベルは、敵国の人間と察することさえ出来ないほどに友好的だった。
正直な感想としては、拍子抜けであった。
同時に、CIAの悪名名高い洗脳プログラムには舌を巻くばかりだった。
そうして、元より楽観的な質だったラザーは、友好的なベルに対してあっという間に緊張感を失った。
警戒というまでではないが、ベルに対してややぎこちないシムスとは違い、ラザーは彼を徹底的に友人として扱うようにした。それが目的のためでもあったが、単純に、ベルがセーフハウスの中では警戒すべき行動に出なかったというのが大きい。
パークもアドラーも、目下ベルの管理で忙しく、手が離せないことが多かったので、ベルは手持ち無沙汰だったのだろう。時折は、アドラーやパークの雑用を手伝っていたようだが、勿論外部の人間、まして敵国の人間に触れさせられる書類など限られている。
ベルは出会ったばかりのラザーに、特に警戒心なく寄ってきては、隣に居座り、とりとめのない話をしていく。最初こそ、ベルの相手はアドラーの管轄、くらいの感覚で接していたが、数日経った今ではすっかりその感覚も失せている。
「暇だ」
ベルリン潜入時の痣を残したまま、ベルはそう呟いた。独り言のようではあったが、明らかに隣に居座ってそう呟くので、その一言はラザーに向けた言葉であろう。ラザーは思わず、苦笑を浮かべた。
「アドラーもパークも、お前が捕まえたヴォルコフの対応で忙しい。仕方ないだろ」
派手な任務の機会など限られている。特に諜報機関では。
ベルの退屈が紛らわされる機会はそう遠くないが、かといって、すぐでもないだろう。
「わかっているが、暇は暇だ」
ベルとてそれを理解しているはずだが、立場的に外出が許されるわけでもないので、必然的にこの限られたセーフハウス内で待機することになる。
「シムスがもう少ししたら昼飯を買ってくる。我慢しろ」
「私もたまには外に出たい」
「そりゃあ無理だ」
「……だよなあ」
諜報員は無闇に外に出歩かないものと、アドラーからは躾られているようだったが、暇の潰し方まで施してくれるほど、親切な男ではない。ベルも期待はしていないのか、一応は大人しくしているようだった。
不貞腐れて今にも机に突っ伏しそうなベルを見かねて、ラザーは立ち上がる。
「ポーカーでもするか」
「する。賭けよう」
「お前何か賭けられるものがあるのか?」
「これから来る昼飯はどうだ」
「……後悔するなよ?」
「お前こそ」
嬉しそうに不敵な笑みを浮かべるベルを見下ろし、もし状況が違ったのであれば、友人になれたかもしれないと感じた。
そして、願わくば、服の下に仕込んだナイフを使う日が来なければ良いと思った。
2.
氷のような男だ。
それがパークの、ベルに対する最初の印象であった。
拘束され、処置台の上に横たえられた彼は、しかしその有様とはかけ離れ、周囲に対して度を越して攻撃的且つ、高圧的であった。それはいっそ状況が理解出来ていないのではないかと、誰もが疑う程だ。
そして彼が今現在、唯一、ペルセウスに繋がる手掛かりであることは疑いようがなかった。聞き出すべき情報は多い。しかし肉体的、精神的問わず、どのような手法を凝らしたところで、すべて徒労に終わった。彼はそれに耐え抜き、決して口を割らない。
質問に対しても徹底して泰然とし、時には怒気と共に射抜くような視線を投げてくる。端整な容姿の持ち主である彼がそうして瞳に感情を乗せると、息を呑むほどの迫力があった。
そして、殴打の音が響く。
それによって傾いだ顔が、ゆっくりと元の位置に戻った。しかし、彼はいっそ何事も無かったかの様に平然としていた。双眸に浮かんでいるのは、敢えて言葉を探すなら、侮蔑であっただろう。
「よく躾けられた犬だな」
それは皮肉でもあり、称賛とも取れる。一連の尋問の担当であったアドラーをして、そう言わしめるほどであった。
彼はその評価に、やはり眉一つ動かさない。
どうやら痛みにも相当耐性があるらしい。殴られて腫れ上がった頬を気にした様子もなく、口に溜まった血を吐き捨てる。
「黙れ。西側の犬共が」
一言そう言い捨てる時だけ、その氷を思わせる瞳にほんの寸瞬、煮え滾る憎悪を見た。
なるほど、とパークは思う。
これは誰もが梃子摺る訳だ、と。
そうしてパークとアドラーは、彼の鋼の意志を折るのでも、曲げるのでもなく、根本から書き換えて利用することにしたのだ。
長い時間と労力を使い、結果、その試みは功を奏した。
そうして、ベルと新たに名付けた名を彼が受け入れ、パークが彼に対する印象を改めたのは、西ドイツのセーフハウスを訪れてからすぐのことだ。
ベルからヴォルコフの情報を引き出し、東ベルリンで捕獲するという計画を立てた直後、ベルが彼女に対して、いくつか質問を投げかけてきた。
記憶の書き換えを行った後も、彼はいつでも淡々とした印象だったが、その時ばかりは違った。それは丁度、彼がアドラーの傷跡の話になった折、
「個人的な質問は避けて。何があっても、彼の傷のことは訊かないこと」
少しだけ声を落とした彼女の忠告に、ベルは不思議そうに瞬き、酷く無防備な顔をしたのだ。
それだけではない。後方にいるアドラーを肩越しに顧みてから、少しだけ身を屈めてパークのほうに身を寄せた。
「アドラーのあの傷は、どうやって出来たんだ?」
まさしく、秘密の共有を持ちかける仕草であった。
凡そ、パークもアドラーも関係なく射殺すような目で睥睨してきた人物の印象とは遠い。
彼の記憶の操作にあたり、ベルの元々高かった攻撃性を抑えるよう意図して操作は行ったが、それ以外のところは元より忠誠の矛先を変えることだけに注力している。
つまり、この僅かに幼い仕草は、元のベルの人格に拠るものと考えるべきだ。
「知っていたとして、話すと思うの?」
驚きを押し隠しつつ、答えをはぐらかす。元より、問われた理由の内容など、答える必要もない。
しかしベルはパークが答えを拒むことを理解していたようだった。そうした上でこの上なく芝居がかって、慇懃に頼み込む。
「教えてくださる、のでは?」
おまけに相好まで崩し、まるで揶揄うようだ。彼が笑みを浮かべると、目が離せない魅力がそこにある。
「あなた、可愛いのね」
これにはパークも小さく失笑してしまった。それは本心からのものだった。
パークの答えに、ベルは身を起こして、それ以上の追求は諦めたようだ。
「話せてよかった」
「光栄だわ」
そうして会話を切り上げ、彼はすぐに身を翻してシムスの元へと向かった。
不思議な魅力を持つ人だ。
その背を見つめながら、彼女はベルに対し、そう認識を改める。
経過は観察をする必要があるが、彼の状態については、今後この方向で間違いないようだ。
彼の為人を知るには、まだ充分に時間がある。
彼女は鞄からベルについての資料を取り出すと、もう一度シムスと談笑を始めたベルを一瞥してから、彼に施した洗脳プログラムの項目に、現状維持と書き添えたのであった。
3.
そもそも、シムスはアドラーの計画には懐疑的だった。
アドラーとパークはそれに疑問を抱かなかったようだが、何度か目にしたペルセウスの一味の男は、抜き身の刀のような男だった。揺るがない忠誠心、睥睨する眼差しは冷え冷えとして、殺意を隠そうともしない。どのような方法を用いようとも揺るがないその様には、誰もが目を瞠った。
曰く、
「上手く行くだろう」
と、アドラーは言う。
元が自信家なアドラーの言うことだ。もちろん、それは経験に基づいた自信であることをシムスは知っていたが、それでも、シムスはこの計画に敵国の人間を引き込むことは反対だったと言っていい。もしも彼に拒否権があったのであれば、そうしていただろう。
CIAは、というよりも、ラッセル・アドラーは時として、手段を選ばない。
目玉が飛び出るような無茶も、倫理感を凡そ逸脱していると思しき行為も、必要があるのであればと、躊躇わない男であることを、シムスは見てきた。
シムスとて、元軍人でCIAの一員だ。人に語れないような後ろ暗い事柄は、掃いて捨てるほどの経験がある。彼の手もまた、綺麗であるとは言い難い。
「お前は繊細なところがあるからな」
難色を示したシムスに向けて、アドラーが放った一言がこれだ。
シムスはその言葉に反発を覚えても、押し黙るしか術がなかった。
長くベトナムの経験を引き摺り、心を病んだことを、アドラーはよく知っているからだ。それは取り立てて彼が珍しいわけではなかったが、傍に居たアドラーやウッズ、メイソンなどという所謂古参の連中は、そういった素振りを全く見せなかった。それ故に、彼はそれを、どこか恥ずべき事のように思っている。
結局のところ、彼はその計画の一端を担う形で受け入れるしかなかった。
「何だ、じろじろ見て」
複雑な感情を持て余しながら見遣ったベルは、全く警戒した様子など出さずに、小首を傾げた。
ベルが元々物臭な質なのかはわからないが、彼は整った見目に反して、雑なところが多い。彼は今も、缶詰を開け、直接スプーンを突っ込んで食べているところだった。
「……いや、それ、美味いか」
「んー、不味くはない。お前も要るか?」
スプーンを咥えた儘、シムスに缶詰を勧めてくるベルを見て、シムスは思わず口角を上げた。
「要るか。お前、人に食いかけを勧めてくるな」
「お上品だな。そういうの、気にする質だったか?」
「お前が忘れてるだけだろ」
「……そうだったか?」
首を捻るベルから、シムスは頬杖をついて目を逸らした。
正直なところ、ベルを正視するのは気が滅入った。話をするのも。
それは、彼はこの先、長くはあるまいと分かっているからだった。あのアドラーが、そしてハドソンが、危険性の高く、まして維持費も膨大にかかる彼を生かしておくはずがない。
そう、単純に、後ろめたいのだ。
ベルの元になった男がどれだけ危険だったかは、シムスとて理解している。けれども、こうして隣に座った彼が、友好的に接してくれば、多少の罪悪感も湧いた。それが、どうあっても必要なことであると、理解していてもだ。
(こういうとこが、繊細とか言われる理由かもな)
シムスから見て、セーフハウスに居る連中はどれも、韜晦に長けているように見えた。勿論、ベルに疑われるような態度を出すべきではないと分かっていても、シムスはアドラーにぎこちなさを指摘されることさえあった。とはいえ、平然とするのも難しい。
無防備で笑みを向けてくるベルを一瞥して、尚更気が沈むのを自覚しながら、シムスは深々と嘆息を吐いた。
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