彼らが家に帰り着いてすぐ、後方で扉が叩かれた。犬を抱いた儘、ウェイドが扉を開けると、そこに立っていたのは見知った少女だった。
「ローラ!」
 虚無世界で出会った少女は、ウェイドを見、そして次にローガンへと視線を移す。
「TVA仕事早いじゃーん! 他のみんなは? 久々の外でランチ?」
「ううん、此処に来たのは私だけ」
 ウェイドの問いに、ローラは首を振って答えた後、彼の横をすり抜け、その後方に立っていたローガンの目に前に立った。
 彼女は彼を見上げ、
「私はローガンと居たいから、此処に来るのを選んだの」
 と、告げた。
「……は?」
「ワァオ」
 それを聞いて、途端に顔を顰めたローガンと対象的に、ウェイドは楽しそうに口笛まで吹く。ローガンは如何にも鬱陶しそうしそうにそちらを一瞥したが、それどころではないと、ローラに視線を戻した。
 だが、口を開こうとする彼を制して、ローラは更に続ける。
「反対してもだめ。もう決めた」
「俺の都合はどうなる」
「勝手についていくから、私のことは気にしなくていい」
「そういうわけに行くか。お前みたいな子供は、安全な場所に……」
「もう子供じゃないもの。自分で帰る場所は自分で決める」
「だからソレが何で俺のところなんだ!?」
「まー、まー、まー、良いじゃん? 親子水入らずで」
 ローガンの語調が強くなると、ウェイドが慌てた様子で彼と彼女の間に割り込んだ。しかし、ウェイドが放った一言に、ローガンは更に眉を寄せる。
「……何だと?」
「そこのバカ共! 玄関で屯するんじゃないよ! 早く中に入りな!」
 ローガンが言葉を継ぐ前に、部屋の奥から怒声が飛んだ。彼らが揃って振り返ると、杖をついたアルシアは、目が見えないにもかかわらず、しっかりとローラの方を向く。
「お嬢ちゃん、おいで」
 打って変わって柔らかな声音で呼びかけた。ローラは呼ばれるまま、彼女と一緒に部屋の奥へと歩いていく。
 ウェイドもそれに続こうとしたが、ローガンがその腕を捕らえた。彼女たちが見えなくなる頃を見計らって、ローガンがウェイドに険しい顔で詰め寄る。
「親子とは、どういうことだ」
「あれ? 言ってなかったっけ?」
 相対するウェイドは、小首を傾げて目を瞬かせた。
「聞いていない。説明しろ」
「本人に訊けばよくない?」
「どんな事情かもわからず、子供に訊けるか」
「あ、そういう? やり捨てた女の子供とかじゃないから安心していいよ」
「人聞きの悪いことを言うな。研究所生まれなのは聞いた。そういうことじゃない」
 あからさまに複雑そうな彼女の生い立ちについて、彼は正面から訊ねる気にはならなかった。ウェイドの言うことは誇張も嘘も多いが、ローラの事柄については概ね、本人の様子を見るに嘘がないようだった。
 ただでさえ、人間とミュータントの間には軋轢が生じやすい。ローラがろくな目に遭っていないことは想像に難くなかった。直接訊ねれば、嫌なことも思い出すに違いない。
「えっと、何処まで説明したんだっけ? ローラは研究施設で、アンタの検体から生まれた。人工授精だから、正真正銘、ローガンの血の繋がった子供ね。あと、母親は多分処分されてるとかなんとか?」
「彼女はそれを知っていたのか?」
「そう」
 ウェイドが記憶を漁るように明後日の方へ視線を流しながら、殊更に軽い口調で告げたあまりにも重い内容に、ローガンは思わず天を仰いだ。
「施設には似た境遇の子供が何人もいたけど、まとめて失敗作の烙印を押されて、そんで処分されそうになったから逃げた。ちなみに完成品とやらはローガンのクローンだったけど。それはローラとこっちの世界のローガンがぶっ殺して、彼女だけが生き残ったってワケ。たしかそん時、ローラは十歳? それくらいだったかな?」
 改めて聞かされた彼女の過去は、あまりにも暗い。
 最初に彼女の話を聞いた時は、他の世界の自身がどうやって“死ねた”のかばかりが気になって、ローラの事までは頭が回らなかったというのもある。
 過去に仲間が人間に狩られた話をした際、彼女は特に驚いた様子もなく、あまつさえそういった事柄を当然のように受け止めていた。暗闇の中で、ローガンに寄り添う姿勢を見せた優しい少女の姿を想いつつ、彼は重たく息を吐く。
「そういえば、なんだってお前はそんなことを知っている」
「えー? だってローガン観たし」
 ウェイドの答えは要領を得ないものだった。欲しい答えではなかったが、嘘はなさそうだと判断して、ローガンは思案を巡らす。
 ウェイドはそんなローガンを尻目に、励ますように彼の背を叩いた。
「まあいいじゃん? 子連れの方が社会的信用は高くて部屋借りやすいよ」
「そういう問題か」
「じゃあ、どういう問題?」
 逆に問われて、ローガンは押し黙った。
 彼はずっと一人だった。独りでいるのが当然で、それが日常だった。突然子供がいると言われた困惑も当然のことであった。家族という単語さえ余所余所しく、身に馴染むはずもない。他人事のようだ。
「まあ、そこは二人で話し合ったらいいじゃん? でもローラはアンタに似て頑固だと思うけどなー」
 そんな困惑を知ってか知らずか、ウェイドは彼を置き去りにして部屋の奥へと歩いていく。その背を見送りながら、彼の足は縫い留められたように、その場から動かない。
「ローラ? 俺のかわいいワンちゃんは散歩の時間なんだ。悪いけど、ローガンと二人で留守番よろしくね」
 躊躇しているうちに、部屋の奥からそんな底抜けに明るい声が聞こえて、漸く、ローガンは歩を進める。
 覗き込んだ部屋の中には、雑多な物が置かれ、中央のテーブルにはローラとアルシアが座っていた。ウェイドはアルシアの手を取って、促す。
「さ、アルも行こう。散歩」
「なんでアタシまで! アンタ一人で行きな!」
「いいから。空気読んで! ハッピーになれる粉も買ってあげるから!」
 文句をが止まらないアルシアを立ち上がらせ、ウェイドは少しかがみ込むと、何事かローラに囁いてから、小脇に犬を抱えた儘部屋を出ていく。それを目で追ったローガンに、しっかりとウィンクまで残して。
「わかってんのかい、アンタ! アタシが家主だよ!」
「ほんっとに空気読んで!? わかったって、なんかしょっぱいものも買ってあげる! すっごい血圧上がりそうなやつ!」
「アタシを殺す気かい! なんてやつだ!」
 無駄に賑やかな彼らが言い合いながら出ていくのを、ローガンもローラも呆れた面持ちで見送った。玄関の扉がしまってからも、暫く彼らの声が聞こえていたほどだ。それも遠のいてしまうと、たった二人だけの室内は酷く静かに、酷く広く感じるようになる。
 ローガンはぎこちなく、ローラに視線を戻した。彼女もそれに気が付き、ローガンを見上げる。
「座ったら?」
 先ほどまでアルシアが座っていた椅子を一瞥して、ローラが促した。ローガンは虚を突かれて瞬き、躊躇いながらローラの隣に腰を下ろした。
「ウェイドが、なにか言っていたか?」
「ああ……、貴方には泣き落としが有効だって」
 余計な助言を残していった男の顔が脳裏に浮かぶ。ウェイドはどうやら、ローガンの当惑を他所に、ローラの味方であるらしい。
「やってみるか?」
 揶揄を混ぜて問うと、ローラは苦く笑った。そうして、彼女は静かに首を振る。ローガンはローラのことはよく知らないが、彼女が泣き落としができるような器用な人物には到底見えなかった。
 彼女はじっとローガンを見上げていたが、ややあって、居住まいを正して、身体ごと向き直る。
「理由を教えて」
 痛いほど真っ直ぐに向けられる双眸には、ローガンがたじろぐ程の強い光が宿っている。
「私が居たら、駄目な理由。場合によっては、諦める」
 ウェイドが言っていた、親子、という単語が脳裏を過った。ローガンは内心、躊躇いながらその瞳を見返した。
「さっきも言っただろう。お前は安全な場所に居るべきだ。……俺は」
「大事な人を、不幸にする?」
 彼の言葉の先を正しく継いだのは、ローラだった。
 まるで心の内を読まれたかのような言葉に瞠目するローガンを見、ローラは懐かしいものを見るかのように、かすかに目を細める。 
「そんなの嘘。だって、私は助けてもらった。不幸になんてなってないもの」
 それは惜しむような、慈しむような、悲しい響きのする声だった。
 だからかもしれない。彼は、彼女を助けたという男の話を、聞いてみる気になった。
「どんな奴だった? お前の知る……この世界の俺は?」
「最初は、いい印象じゃなかった。仕方のないことだったんだけど……」
 そう切り出した彼女は、過去の話を始めた。
 それは長いようで短い、逃亡劇だった。
 彼女を施設から連れ出した、親代わりのような女性のこと。
 追手がかかったこと。
 普通の人間を巻き込んでしまったこと。
 チャールズのこと。
 仲間のこと。
 そうして、最期まで一緒に来てくれた、ローガンのこと。
 彼女はそれらを語る間中、何処か遠くを見ていた。日が差し込む、様々な家具や雑貨がある普通の家の中ではなく、何処か遠くを。翳りのある瞳で。
 その翳りは、ローガン自身にも身近なものだった。
「あの後、逃げ延びて……時間が経つにつれ、わかったの」
 短い旅路を語り終えた彼女は、苦い記憶をそう振り返る。
「あの時、ローガンが本当に護りたかったのも、大事にしたかったのも、私じゃないの」
 そう言って、彼はローガンに視線を戻した。
 話を聞いたローガンには、それが一体誰の話なのか分かる気がした。
「チャールズ、か?」
 問えば、彼女はゆっくりと首肯する。
「彼らにどんな事情があったのか、私にはわからない。話してくれなかったから。けど、なんとなく、チャールズとどこか遠くへ行きたがってた気がする。チャールズの能力はすごかったから、きっと、人間には脅威だったんだと思う。もしかしたら、彼も追われる立場だったのかも」
 やがてその面ははっきりと曇った。
「なのに、私たちが巻き込んだ」
 彼女は俯き、長い髪がその表情さえ覆い隠した。しかし、発せられるその言葉は、かすかに震えている。
「私が来なかったら、きっと二人は逃げられた。チャールズだって、あんなふうに……」
「やめろ」
 その言葉の先を、彼は強く咎めた。彼女の細い肩が揺れる。
 彼が知るチャールズならば、若い世代のため、その身を捧げることを厭わないだろう。寧ろ、ローラよりチャールズを守ろうとするであろう、ローガンの身の振り方を咎めるに違いなかった。結果そのために命を落とし、そして彼女が生き残ったのであれば、チャールズはそれを良しとし、彼女の無事を喜ぶだろう。彼はそういう人だった。
 そういう人だったからこそ、ローガンは彼を尊敬していたのだ。
「お前はその時、子供だったんだろう? 誰かに護られることを、悪いことのように言わなくていい」
 きっと、ローガンの知るチャールズなら同じことを言っただろう。
 ローガンの言葉に、ローラは顔を上げる。その目元は微かに赤い。それでも彼女は、息を吐いて小さく、笑って見せた。
「貴方は、いつも怒っていて、いつも……悲しそうだった」
 無理に笑おうとする不格好なそれは、いっそ痛々しいほどだった。
「今なら、わかる。きっと、貴方だって、誰かの助けが欲しかったって。どうしようもなく、つらかったはずなの。なにもかも。なのに、それなのに……、助けに来てくれた。だから……」
 ローラの必死さは、きっと、失ったものの大事さ故なのだと、手に取るようにわかった。わかってしまった。
 ローガンにも数多、失ったものがある。一度は、それを救う幻想を見た。そのためになら、何でもできるとさえ思った。
 今の彼女は、失ったものを、もう一度目の前にしている。もし、ローラもローガンと同じなのだとしたら。もう一度失わないためになら、なんでもするだろう。
 きっと、二人は、驚くほどよく似ているのだ。
「お前は、俺の助けになるつもりなのか?」
 彼女はその問いに口を引き結んで、沈黙で返した。けれども、目は逸らさなかった。それが、肯定であった。
 彼は一つ溜息を吐くと、緩く首を振った。
「俺には、もう、助けは要らない」
 実際のところ、ローガンはローラに助けてもらうような事柄など、もう無いのだ。
 蹲るのは、もうやめた。過去のことは、背負って立つ覚悟もできた。
 それは、絶望していた彼をウェイドが連れ出し、そしてウェイドとローラがあるべき姿を思い出させてくれたからだ。彼らがいなければ、今のローガンはなかっただろう。
 しかし、そうであるからこそ、ローガンはローラの切実さを、無下にはできない。
「だが、それ以外の理由で着いて来たいというなら、好きにしたら良い」
 ローラはそれを聞いて、大きな目を瞬いて見せる。
「それ以外? どんな?」
「さあな。何かないのか?」
 ローガンが問えば、ローラは僅かに眉を寄せ、途方に暮れたように見えた。考え込んで沈黙し、ついには、俯いてしまう。
 ローガンが思ったよりも、ローラはその問いを重く受け止めているらしかった。理由を探して小さく俯くそれが、彼には幼い子供のように見えた。けれども、その子供は、ただ一つの我儘さえ言うことを知らないのだ。
「どんな理由でも良い」
 そうして、ローガンは彼女に向けて、助け舟まで出していまう。ウェイドがこれを聞いたら、間違いなく茶化すだろう。此処に居ない友人の笑い声が聞こえた気がして、ローガンは思わず苦笑してしまった。
 やがて、ローラはおずおずと顔を上げる。
「……いっしょに居たい」
 ともすれば、聞き逃してしまいそうなほど囁かに、こぼれ落ちた。それは些細で、拙い願望だった。
 か細く震える声は、如実に、それが如何に伝える事に勇気が要ることだったのかを教えていた。向けられた怯えるような瞳には、ローガンがその申し出を拒否するのを、恐れる色がある。
「いっしょに居て」
 それでも重ねて乞い願う言葉に、胸にこみ上げた不慣れで温かな感情の名前を、彼は知らない。
 彼らを取り巻く世界の、外側でありふれた光景。父が娘の我儘を聞く。たったそれだけの。
 きっとそれは、こんな感じなのだろう。
 ローガンは知らず、笑みをこぼして頷いた。
「……分かった」
「……いいの? ほんとう?」
「ああ」
 少女は、その小さな小さな願い事が叶ったことに、酷く驚いたようだった。
 思わずといった様子で確認し、ローガンが頷いたのを見届けると、不意に、その表情が歪んだ。みるみるうちに、その大きな目から涙が盛り上がったかと思うと、それはあっという間に堰を切る。
「おい……」
 思いがけない反応に、ローガンは目を剥き、情けないほど狼狽して、ローラに手を伸ばした。
 その手を掴んだローラは、痛いほど、それを握りしめる。縋るように、確かめるように。その慣れない温かさを感じながら、ローガンは僅かに躊躇って、細い肩を抱き寄せた。胸に寄せたローラの細い嗚咽は、はっきりとした泣き声に替わる。
 ローガンはそのまま彼女が落ち着くのを待った。
 それから、ややあって繋がれた手に微かに緩んだかと思うと、しゃくりあげる合間に、
「一度だけ……、パパって、呼んで良い?」
 と、ローラが願う。
 その呼び名を受け取るのには、彼にはまだ躊躇いがある。けれども、彼は躊躇わずに応えた。
「ああ」
 もう一度、繋がれた手に力が篭った。
「……パパ……っ」
 縋るような声は、幼い子供を彷彿とさせる。それを聞きながら、ローガンは、彼女を助けたという別世界の己に思いを馳せた。
 その男は人生の最期に、少女を護り、家族を得たのだ。心の奥底で欲しながら、諦めたはずだったものを。
 きっと、誇らしかっただろう。彼にはそれが、少しだけ、羨ましいことのように思えた。


***


 気遣いによる犬の散歩に出ていた家主達が帰宅したのは、それから暫くしてからだった。
 あの後、泣き疲れて眠ってしまったローラを近くのソファに横たえたが、彼女は眠った後もローガンを離さなかった。故に、彼は今、彼女に膝を貸しながらソファに座っている。
 その状態を、堪えきれない笑みと共に眺めたウェイドは、腕に乗せた犬にこれでもかとばかりに口元を舐め回されながら、
「で? どうなった?」
 と、わざとらしく訊ねる。
「子連れのほうが、部屋を借りやすい」
「……そっかあ」
 酷く迂遠な言い回しではあったが、正しく理解したらしいウェイドは、何度も頷いて見せる。
「良かったね」
「どうだかな」
「いーや、絶対良かった」
 彼は抱えていた犬を撫でながら、ソファの端に寄りかかって二人を見下ろす。
「何も無い、じゃなくなったじゃん」
 その言葉はあの地下で、ローガンがウェイドに告げた中の一つだった。ローガンは思わずローラを見下ろしてから、ウェイドを見上げる。
「かわいい娘に、大親友の相棒もいる。 あっ、コレって、なにか探す必要もなくない? なんなら一緒に住んじゃう?」
「念の為訊くが、大親友の相棒ってのは、お前の話か?」
「他に居るワケ? やだ、浮気!? マルチバースの中でも、ベストオブデッドプールはこの俺よ?」
「お前の大親友はピーターじゃなかったのか?」
「レジェンドね。勿論あいつもマブダチだけど、クズリちゃんのことも愛してる」
「なら、浮気者はお前の方だろう」
「拗ねないで? ハニー」
 犬を撫でるついでに、ウェイドが伸ばしてきた腕を払う。ウェイドのことだ、放っておけば、頭を撫で回されたに違いなかった。
 払いのけられた手を振りながら不満そうに口を曲げるウェイドを見、そして、膝の上で眠っているローラを見下ろす。
 つい昨日まで、彼はこんなふうに過ごすことなど想像だにしていなかった。
「……家族に親友か。急転直下だな」
「でも大団円でしょ」
 その小さな呟きを拾って、ウェイドが付け足した言葉があまりにも腑に落ちて、ローガンは一笑する。
「違いない」
 それは暗い影を感じない笑みだった。
 それを見て、ウェイドも満足そうに笑みを浮かべた。



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